「ブーニンと吉田秀和氏」(1991年OBFN「特集」より)

先日のブログで、音楽評論家の吉田秀和さんの98歳の死去に触れました。
そのことで、他のブログを訪ねることになり、そこで、吉田氏の3・11についての言葉を知ることが出来ました。


東日本大震災、とりわけ原発事故は、「最大の絶望」


あの事故をなかったかのように、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない。


写真と言葉の引用先:http://blog.goo.ne.jp/toshiaki1982/e/09bb35602d89897d32017f37ec0ade4e

短い言葉の中に、「あぁ〜吉田秀和さんらしい!!」と懐かしく思いました。
そして、もう20何年も前のことになるピアニスト・ブーニンさんとのあれこれを思い出して、当時のOBFN(大阪ブーニンファンネットワーク)のファイルを何年振りかで取り出してみました。私にとって、私たちにとって、吉田秀和氏は本当に特別の人でした。突然の訃報と、3・11とその後の原発事故についての吉田氏の言葉を知って、あの当時70歳初めの頃の吉田秀和さんと確かにあったと思える交流(?)をここに再録して追悼したいと思います。
OBFN(1991年12月3日号「特集『ブーニン吉田秀和』」より、時系列に直して採録
1.1986年7月19日 NHKテレビ「ブーニンショパン・ワルツ集」
  ブーニン初来日、初日の演奏会直後のインタビューでの吉田氏の発言。

え〜、それはね〜、あのー、とてもうまい人ではありますよね。だから、ショパンコンクールのようなものに、優等的なって言うかな、ものすごい成績で一等をとったってことは分らなくはない。けどね、かつてね、ソ連は、今までも何人も、ものすごくテクニックのいい優秀なピアニストをだしているんです。でも、どういうわけだか、みんな変に秀才的で、あんまり面白くないのが多かったですね。で、後でどこへ行っちゃったか分らない人がいる。その人に比べると、この人は一匹オオカミ的というかねー、ものすごく自分のあれを主張するね〜、面白いタイプが出てきた。それだけ、やっぱりソビエトのいろんなことが変わったのかな〜と言う気はしますね。


ただ、それがね〜、僕にはもう一つわからないことがある。いわゆるね、アンファン・ガテーていうか、甘やかされた子どもっていうかねー、少しその、あんまり秀才なんだもんだから、やりたいことは何でもやってて、なんかこの、枠が無いのか、それとも、本当に、何かいろんなものにぶつかって抵抗している、いわゆる、大袈裟な言葉だけども、反体制そのもの、アンファン・テリーブルなのか、その区別が、僕にはまだつきません。


そいで、音楽そのものは、自分の音楽をやっていることはわかるけど、とっても、まだ、若々しいし、青臭いねっ。 だから、将来、この人が、一世紀に一人の人だか、なんてのは、とっーても、僕には、判断、つかないっ。それからね、音もねー、僕は、ま、これは、この人の不幸で、この間、ホロビッツのような音を聴いたばーっかりだからねっ、比較にならないっ。今、考えてみると、あの人の音は素晴らしかった。 ま、 この辺ですな。」

◎ 2,3年前、吉田秀和氏はホロヴィッツの演奏を「ひびの入った骨董」とたとえ、それを聞いたホロヴィッツがリベンジ(当時こんな言葉はありませんでしたが)演奏で来日、今度は絶賛、という「事件」がありました。
ブーニンの半生記「カーテンコールのあとで」では、ブーニン自身は「反体制の人間」としてソ連の国外でのコンクール出場時は数人の見張りがいて亡命を警戒されていたと書いています。


2.1986年7月21日付けNHKへの葉書

ブーニンの7/13のFM生を聴き、7/19のテレビを見ました。
テレビのなんと酷なことか。テレビが怖くなりました。19歳のブーニン
ホロヴィッツと比べる批評家も酷。内心の動揺を隠して、拍手に応えなければ
ならないブーニンも酷。つまらない質問をしなければならないインタビュアーも酷。
でも、舞台の袖の場面が無ければ、ブーニンには、もっと残酷な番組に
なっていたかもしれません。芸術家への道のなんと厳しいことか。

・・・とにかく悲しいワルツになりました。
       ブーニンの弾くメランコリーなワルツの美しい旋律だけが
          いつまでも耳元に残ります。悲しいワルツでした。

3. 1986年8月5日 NHKからの手紙

7月19日(土)放送の「ブーニンショパン・ワルツ集」につきましては、早速、ご意見をお寄せ下さり、誠にありがとうございました。吉田秀和氏の発言と、最後の舞台袖でのブーニンのインタビューにつきましては、お便りが数多くありましたので、ここで私たち番組を作った側の意図を、ごく簡単に述べさせていただきます。
(1)せっかく多くの視聴者が、ブーニンの演奏を楽しもうとしているのだから、吉田氏のような意見は聞きたくなかった、というご意見がありました。NHKとしては、ブーニンの日本最初の公演が、残念ながら、本人の精神的、肉体的な不調のため、必ずしも完全なものではなかった、彼の最上の演奏ではなかったことを、全くつたえないわけにはいかない、と考えました。従って、この番組は、ブーニンが7月11日に成田へ到着してから、13日の最初の公演が終わるまでを、ありのままお伝えすべきだ、というのが、まず、私たちの基本的な態度でした。ですから、吉田秀和氏のような意見があることも、そのままお伝えすべきだと考えたのです。
しかし、一方で、不調であったとはいえ、ブーニンのこの日の演奏は、やはりいろいろな点ですばらしいものであったこと、そして彼が、こういう大変圧迫の多い立場におかれながらも、誠実に努力していたということを、視聴者の皆様にお伝えするのが、この番組の使命だと思いました。そして、その意味で、この番組は、ブーニン音楽と人柄を正しくお伝えできたと思っています。
(2)略(3)もう一度繰り返すようですが、このインタビューによって、(1)で述べた吉田秀和氏のような厳しい意見もありますが、ブーニン自身がいかに謙虚に自分の置かれた立場を認識し、またあれだけ才能のある青年でありながら、努力を怠らない人であるかということを、日本の視聴者にお伝えすることができたとおもっています。
吉田秀和氏の発言と、この最後の舞台袖でのブーニンへのインタビューが、この番組の大変重要な要素であったこと、そして、それによって、ブーニンが置かれた立場、ブーニン音楽と人柄を、正しくお伝えできたということを、どうぞ、ご理解いただきたいと思います。…何卒、今後とも、NHKの音楽番組について、ご意見、ご希望がございましたら、どしどしお寄せくださいますようお願いいたします。皆さまの積極的な反応こそが、MHKのクラシック音楽の番組を支えてくれるものだと私たちは思っております。何卒、今後とも、よろしくお願いいたします。草々。」
「PS ブーニンの最後のインタビューの価値を認めて戴いて、一同感謝しています。NHK音楽芸術部「ブーニンの…」係」

NHKの丁寧な文面に驚きました。そういえば、ブーニンシンドロームとかブーニンフィーバーとかブームの火付け役は、1985年12月のNHKのドキュメンタリー「衝撃のショパンコンクール」でした。18歳から19歳になりたてのブーニンを最初に捉えた映像です。コンクールというステージで如何にも楽しげに生き生きとショパンを演奏しているブーニンと、人ごみを避けて一人でいる髭を蓄え老成したようにも見える青年音楽学生とのギャップ。彼がこのコンクールに賭けていたものの大きさを後から知ることになりますが、映像はそれらをシッカリと映してアジアの果ての日本人ファンの心を捉えてしまいました。これをきっかけにNHKクラシック音楽(番組)を大衆的なものに(=クラシック愛好家を増やす)したかったようです。
◎1988年6月、ブーニンソ連からドイツへ亡命(本人は後に「移住」と言い換える)。 


<1988年、「音楽芸術」8月号、吉田秀和氏の「かいえ・どぅ・くりちっく、ブーニン亡命」より>へつづく