スタニスラフ・ブーニンさん再起のリサイタルツアーに寄せて今を語る(毎日新聞12/21)

◎先日、奈良の学生時代の友人から電話がありました。数年前に脳出血で倒れてから後遺症で手足と言葉が少し不自由になりましたが、リハビリのお陰で、電話が聞き取れるくらい回復。今年初めに、私が読み終えた文庫本を送りました。妹さんと同い年の作家、沢木耕太郎の小説と原田マハの「リーチ先生」でした。その時、島田雅彦の「パンとサーカス」を読んでるから、終わったら送ると言われていました。

音楽会や本の話になったので、あの本送って~とリクエストしました。彼女と電話で話しだすと、必ず妹さんが入ってきて、私は二人を相手に話すことになります。本当に、いつも前向きで明るくて賑やかな姉妹で、生きていることが楽しくて仕方がない…と言う感じです。情報は、テレビがないので、ラジオ。新聞は毎日だったかな。そう、そう、ピアニストのブーニンの話になって、毎日新聞に長文の記事が掲載されたそうで、この冬始まった一連のリサイタルのことも知っていて、「行くの?」と聞かれました。奈良から妹さんの運転する車でシンフォニーホールのブーニンを二人でよく聴いておられました。「行くよ。1月8日。聴いてくるね」と返事しました。

ヒメツルソバは寒くなっても花をつけています)

電話の翌日か翌々日、 先月我が家にお招きして数時間の楽しい時を過ごした年下のブーニンファンさんが、その毎日新聞の記事の切り抜きを送ってくれたのを受け取りました。これは2面に渡って、とても詳しい内容の記事になっていました。空白の10年間を、これを読んで埋めることが出来ました。もっとも、私にとってブーニンさんの空白は10年以上でしたが。1月8日、シンフォニーホールのブーニンのリサイタルを夫も聴くことになっていますので記事を見せました。真剣に生きている人は謙虚で立派という夫の感想でしたが、私も同じことを感じました。新聞のテレビ番組欄によると、1月1日のNHK12時5分から「ブーニン~10年の空白を越えて~」の放送があります。

☆12月21日(木)の毎日新聞夕刊の切り抜きから。1面の記事を写真で:

写真に写っていない2段の記事を書き移しておきます:

◆身体的なコンディションは完全に回復したとは言えません。左手の2本の指に少し麻痺が残り、バッハやモーツァルトを弾きこなすことはまだまだ難しい。とはいえ音楽的な思考のプロセス、解釈の構築は、以前の状態に戻ることができました。

―――人生の辛い経験、年齢の積み重ねが、その人の演奏に宿るのではないでしょうか。

◆音楽的によい結果をもたらすことはあるでしょう。10~30代の自分と同じような演奏が出来ないのは事実です。それに代わるものが私にあるかどうかは、聴く人々がどう感じるかによります。

―――亡命した1988年、ジャーナリストの栄子さんとドイツで会って結婚し、以後は日本とドイツを拠点に演奏を続けてきました。療養前年の12年7月、北朝鮮による拉致被害の方々への救援コンサートを行いました。

横田早紀江さんが書いた本を妻が泣きながら読んでいた。それで、拉致問題のことを知り、めぐみさんの好きなシューマンの曲をプレゼントしようと思い立ち、妻に頼んで早紀江さんに手紙を書きました。早速家族会の方々と面会しました。

―――ご自身の境遇と重ね合わせた。

◆そうではありません。私には私の人生がある。めぐみさんは拉致されたとき中学生。まだ子どもでしたよね。子どもの力ではどうしようもなかった。その不条理に対しての憤りです。私はそれまでも子どもへの支援には力を入れ、日本の国内の演奏ツアーの際には、学校や養護施設などを回っていました。

  ロシア侵攻「痛ましい」

―――第二次世界大戦後も各地で紛争や戦争が起き、現在はロシア軍がウクライナに侵攻して多数の子どもたちが負傷し、命を奪われています。ロシアと言う国をどう見ていらっしゃいますか。

◆私がいたときの旧ソ連時代と今のロシアは根本的には変わっていない。ウクライナをはじめとする他の旧ソ連の国々は、ロシアの大統領にとっては、いまなお属国という感覚なのです。ロシアの意にそわない周辺国の動きがあれば阻止しようとする。

 昨年2月に戦争が始まった後、ニュースで、ウクライナの少女の映像が映し出されました。その少女は、ビデオカメラを向けられたことに気持ちが高揚したのか、自分の家が空爆を受けたことを興奮しながら、ひとごとのように話すのですが、内容は空襲や殺害、妹の負傷のこと。そのコントラストが本当に痛ましかった。

2面に続く。

ブーニンさんの父親はスタニスラフ・ネイガウス。祖父のゲンリヒ・ネイガウスはドイツ人のピアニストでリヒテルを育てたピアノ教師。このゲンリヒの妻の再婚相手が作家のボリス・パステルナーク。ブーニン少年は、パステルナークの家(現在は記念館)によく遊びに行って、「そこに集う芸術家たちや書物や絵に囲まれ、彼らが朗読する詩に耳を傾けていた。そこから放たれるエスプリ(精神)がその後の私に影響を与えたかもしれません」と語っています。

音楽は「救いの島」
 大人になって、音楽の道を続けようと決意したのは、音楽が唯一の「救い」だったから。ピアノを弾いている間は周囲の気に入らない人たちのことで思い悩むことはなく、自分自身でいられる。音楽は「悪の大洋」の中に浮かぶ「救いの島」だったのです。

―――ブーニンさんに影響を受けた若い音楽家が日本にもいます。生まれつき全盲のピアニスト、辻井伸行さん(35)は、生後8か月の頃、母いつ子さんが家でショパンの「英雄ポロネーズ」のCDをかけると、嬉しそうに足を動かした。それも演奏者がブーニンさんの時だけ反応したため、いつ子さんは息子に音楽の才能があると気づいた。

◆それは「ショパンの魔術」でしょう。辻井さんは深いところで、それを感じ取ることができた。私はその間に立って伝えるいわばメディア(媒体)です。(数行略)

―――21年10月のショパン国際ピアノコンクールで2位となった反田恭平さん(29)は、ブーニンさんの手ほどきを受けたそうですね。

◆手ほどきというか、2時間ほどでしたが彼が演奏する様子を見ました。昔、私もロン=ティボー国際コンクールに出る前に、リヒテルのレッスンを受けました。リヒテルの一言一動作が何ものにも代えがたい大きな助言でした。反田さんの力になったのであれば嬉しいですね。日本の若手ピアニストは一昔前に比べてレベルが高くなったと感じていましたが、反田さんはその一段上にあり、彼なりの奏法を得ていました。

―――どんなアドバイスを。

◆それは彼と私の間だけのことなので(記者には)言いませんよ。(反田さんが出場した)コンクールは動画中継で見ました。2次予選で弾いた「マズルカ風ロンド」は、ショパンの若い頃の作品ですが、反田さんはこの曲の持つ魅力を十分に引き出していました。

―――ご自身は19歳で優勝した後、母国を離れた。あの時といまとでは国際情勢は大きく変わりました。次世代に伝えたいことは。

◆とても難しい。たくさん話さなければいけないか、あるいは何も話さない方がいいのか。ただ一つ、若者たちに言いたいのは、自分の成長、人生への関心を失わないでほしいということです。何もしようとしない姿を見るのは悲しい。もっと人生を喜び、人生にエネルギーを注いでほしい。

―――それぞれが人生を楽しみ、謳歌すれば世界は平和になるということでしょうか。

◆戦争を始めるのは一部のおろかな人、希望がない人たちです。言い換えれば、何かを学び、成長したいという思いがない。私はそういう人を恐れている。

 自分がそういう国から来たからこそ、強く思います。「人と人との出会いやつながりに、国境は関係ない」ということを。

◎日本でブーニンさんが紹介されたのは、1985年のショパンコンクールNHKが取材して放送したその年の12月末でした。私がその放送を観てショックを受け、クラシック音楽にまさに嵌まったのが翌年の1月から3月。家にあるレコードや録音テープでバッハやモーツアルトベートーヴェンを毎日聴いていました。その内、ブーニンさんのファンクラブに入って、そこで同好の仲間と知り合って、文通が始まり、回覧ノートやミニコミからネットワークになり、その内、指揮者のウェルザーメストさんに心移りして、同じ仲間とチューリッヒ、ウィーン、リンツ、ベルリンと旅したことも。ブーニンさんのピアノを切っ掛けに私が得たものも感謝しきれないほどの事と人とのつながりでした。『人と人との出会いや繋がり』に、年齢も性別も国境もないとつくづく思います。

◎個人的には、今年は母を見送り、長男が健康を回復、仕事も再開して、災い転じて福となる年になりました。年末、年始、久しぶりに家族4人で過ごします。1年間、ブログで綴った世界と日本は願いに反して悪い、最悪・最低とも言える状況。それでも、新しい何かが始まり希望につながる人の世を愛し信じることに変わりは有りません。一年間、ありがとうございました。良いお年をお迎えください。