ジューンベリー実って…ブーニン余話(武満徹の「ブーニン現象について」)

吉田秀和氏の「ブーニン余滴」に次いで二つ目です。
今日から6月、その名前の通り、ジューンベリーが赤く色づいて実りだしています。
背丈もサンルームの屋根を越し始めていますので、今年はまだ無理かもしれませんが、いよいよ、西日除けの役割を果たしてくれそうです。
随分昔の、封印とまではいかないまでも、忘れてしまっていた過去の情熱を思い出しているうちに、大飯原発再稼働が現実のものになりそうな雲行きです。
その前に、片付け仕事?をひとつ。天袋に放り上げていたブーニン関係のファイルを探っているうちに、ファン仲間のどなたかから頂いたコピーが飛び出し、元に戻す場所が分からなくって手元に残ってしまいました。武満徹氏の「ブーニン現象について」という副題のついたエッセイです。八ヶ岳高原音楽堂でのブーニンの演奏と、コンサートの後の演奏者と聴衆が一緒に過ごすビュッフェ式のパーティでのファンたちの狂騒について書かれたものです。
音楽について、評論家ではない作曲家の立場で感じられたブーニンのピアノの魅力を言葉にしておられます。
ジャズとの関連も、これを読んで、ソ連時代のモスクワのブーニンNHKの番組で訪ねた千住真理子さんが、キース・ジャレットチック・コリアのレコードがあるのを見て、「煽(あお)り方を学んでいるんじゃないか」なんて報告をされていたことがあったり、山下洋輔さんが、「クラシックをスィングして弾いている」とブーニンのことを書いておられたのを思い出しました。ついでに、一部を写してみます。コピーの端に「’89,2/10 」とあるのは、私が入手した日付だと思います。コピーのサイズからして「音楽芸術」誌かな〜と。それでは:

     「文化」の現実 ブーニン現象について      武満 徹


 八ヶ岳瀟洒な音楽堂で、ブーニンが弾くショパンを聴いた。降りしきる雪の中、外気は氷点下十二、三度という夜のことだったが、着飾った婦人方が妍を競い、会場は、さながら華やかな夜会の趣を呈していた。
    (3行略)
 あの、テレヴィでのブーニンの演奏は、私に、たいへん鮮烈な印象を残した。才能と技量に感嘆もしたが、それ以上に、一人の若いソヴィエトの芸術家が音楽に立ち向かうその姿勢に、言い知れぬ共感をもったのだ。実(まこと)に爽快な出現だった。
 多くの評者が、その演奏を、「型破り」というような、それこそ錆びた鋳型に嵌った形容で称賛し、また同時に、誹謗もした。それは、そうした人たちの中に既に抜き難く在って影響し続けている複製や模写のイメージを、いつかショパンの実像と錯覚してしまったために発せられた、不用意なことばなのだ。たしかに、ブーニンの演奏は、私たちの聞き方の因習を壊しはしたが、けっして型破りというようなものではない。ショパンの音楽の、あるが儘(まま)の、元の無垢な素顔を、傑(すぐ)れた彫刻家がするように、私たちに提示して見せたにすぎない。物語的に粉飾されたショパンを享受することに慣らされた耳は、そのことに狼狽したのだ。
 類型を持たないという点で、ブーニンショパンはきわめて独創的な演奏解釈といえようが、だがそれがショパンの音楽とは全く別ものであるなどと断定することは、誰にもできまい。むしろ、独創的であるが故に真実である、とも言える。ピアニスト、ブーニンが惹き起こした狂躁は、その底にブーニンの独創性に対するひとびとのさまざまの反応を隠しもっていたにせよ、もはやそれは、ブーニンの音楽とは懸け離れた現象と見るべきだろう。ジャーナリズムやマスコミを通じて喧伝される実体の無い虚像だけが、ひたすら、膨れて行った。ブランド商品を追い需めるように、ひとびとは、音楽とは関係ない、ブーニン現象を追っているのだ。
    (3行略)
 ブーニンは、テレヴィで見ていたよりまだ稚(おさな)さを残した、繊細そうな青年のように映った。演奏は予想していたよりも、もっと素晴らしいものだった。殊に、数曲のマズルカでは、ショパンの音楽に内燃する激情にあらためて気付かされ、驚いたが、その感情の波立ちがいつか宇宙的(コスミック)な周期(サイクル)と同調したように、気付かない間に、私は、聴こえてくる響きの飛沫を浴び、その快い沐浴に我を忘れていた。
 ショパンの演奏でよく見られる、後ろに靠(もた)れるような、曳きずったテンポ・ルバートは、ブーニンの演奏には殆ど見られない。溢れるような感情表出がそうさせるのだろうが、促すような(それは、時に、ジャズのビル・エヴァンスや、高橋悠治の演奏を想起させた)テンポのつっこみ(本文付点)は、わざとらしさの少しも無い自然な流れで、立体的な音空間を創って行く。また、ショパンの旋律を形づくっている、独特の性格的な音形(フィギュア)のひとつひとつに、ブーニンは、実に多彩なアプローチを試みる。虚心に耳を開けば、ブーニンの天才は並みのものではないことが解ろうというものだ。

     (10行略)
・・・・・・もちろん、当夜の聴衆がすべてそうであったのではないが、それでも多くのひとには、その夜ブーニンが弾いたショパンなどどうでもよく、付け足しに過ぎなかったのだ。もしそうでなく、あのショパンをほんとうに美しいと感じたなら、あんなにも愚かな、他への思いやりを欠いた挙動に走れるはずがない。音楽は、未だほんとうに生活に染みこんでいないんだな、ということをつくづく思い、それを悔しく思った。
 文化ということばが必要以上に口にされる近頃だが、世は概ね、浮付いた文化現象だけが幅を利かせている。  
                                                   (たけみつとおる・作曲家)

遠い昔、夢中になって聴いていたころを思い出して、またブーニンショパン、聴き直してみたくなります。
ところで、OBFNの会報のタイトルにあったブーニンさんのサインについて。
これは、私よりずっと若い(当時20代)関東方面のファンの方が、地方のコンサートに追っかけで聴きに行かれた時、ブーニンさんを困らせてやろうといたずら心で、短冊に筆ペンを渡してサインを求められた時、ブーニンさん、しばし考えて、やおら短冊を横にして筆ペンでさらさらと流れるようにサインなさったとか。
私がサインをしてもらったことがないと知って、可哀想?に思ってコピーを送ってくださいました。それで、OBFNの通信表紙に利用させてもらいました。文通仲間に手書きで始めて、それからワープロ原稿をコピーするようになり、範囲も少し広がって15,6人ほどのネットワークでした。90〜97年9月まで、最終号はNo.163でした。