吉田氏追悼:「ブーニンと吉田秀和」その3

6.1988年「音楽芸術」10月号 吉田秀和氏の「かいえ・どぅ・くりちっく、 ブーニン 余滴」より

・・・・・手紙を下さったのは、しかし、そういう若い人たちだけではない。なかには、非常に落ち着いた文章で、私の至らないところも指摘され、「その時は誤解したが、今度の記事で、よくわかった」と書いてきた人もいた。ある程度成熟した年齢の方なのだろう。
実は、今日はそういうことを書こうと思って筆をとったわけではない。便りをよせて下さった方々に一言挨拶したあとでは、今度の件で、もう一つ、あらためて痛感したことがあったので、それについて書くのが目的だったのである。それは、書く人の側に、自分が扱っている当面の対象に対して、ー たとえ、個人的、主観的にどう考えていようと ー 相手を不当に、つまり、ちゃんとした根拠もなしに傷つけるようなことは書くまいという態度が根底にあるかどうかだと、私は思う。簡単に言えば、ジャーナリズムというものは、やっぱりヒューマニズムを基本としたものでなければならない。というのが、私の考えなのである。だから、嘘を書いていいわけでは、もちろん、ない。間違ったことを書いてはいけないのも、いうまでもない。
だが、世の中には客観的な真実がなかなかつかめないために、結局は、それぞれの人が自分で判断して評価し、その是非をはっきりさせなければならないと考えるほかないものごと、事件、できごとも、あるのである。それも、たくさんあるのである。その時、どうするか? はじめから予断をもって、人やものごとを審(さば)いてならないのは、どんな人も心がけている。だが、それは本当にむずかしい。私も、さんざん、まちがったことを書いてきた。だから、どんな人にも、理想的な物差しをあてる気はない。けれども、やっぱり、書く以上は、できるだけまちがいをさけ、予断でもって、人を判断することのないようにつとめるほかはない。そういうなかで、私は、この国のジャーナリズムの一つの癖の中に、その時その時の好悪、あるいは一般的な考え方の動向によって、ものごとを赤とか白とかの色をつけて見たり考えたりした末に、書くという傾向があるような気がしてならないのである。読者が自分で判断することがむずかしいことがらであればあるほど、そういう傾向がみられる。

こんどのブーニンをめぐる記事も、どうやら、その例外ではないらしい。私たちに「事実」を伝えてくれた部分がないわけではないと思うのだが、それよりも、書いている人がこの亡命さわぎを − これだけの「騒ぎ」にしてしまったのもまた日本のマスコミだけれど −、どう考えているかが伝わってくる記事の方が、ずっと多かった。
ご覧のごとく今度は、ブーニン亡命についての私の考えを書いたものではない。それはまた機会があれば、書くことにしたい。だが、その前に、私は彼の演奏をもう一度しっかり聞き直した上で、そうしたいと思っている。  略

◎青字の部分、小沢問題での報道などはピッタリ当てはまるように思います。変わっていないな〜と。
7. 1988年12月24日 吉田氏の音楽(ブーニン)評より
朝日新聞の記事写真の中から一部:

ブーニンはただもうピアノ奏法の上で新天地を開こうと必死なのだと思う。彼は今でも何種類かのタッチを駆使して、音楽を歌わせたり、すごい勢いで跳ね回らせたり、急に口ごもって一言一言考えながら発音させたりする上でかなりの能力を開発している。その場合、彼はとりあげた曲について聴衆がすでに持っているイメージや様式感と食い違ったり衝突したりするのを恐れない。このことが「因習的演奏」にあきたりない人、それから「音楽的教養」に煩わされない人たちに新鮮で衝撃的な感動を与えさえする一方で、「客観性に欠ける演奏」と批判される理由にもなっているのではないか。

略(スカルラッティシューマンブラームスショパンと聞いて)

 こうして見ると、今のブーニンは一人ではない。何人かのブーニンがいるのだ。その中のどのブーニンが今後のびてゆくのか?   (吉田秀和・評論家)

8. 1991年11月24日 NHK・FM 吉田秀和「名曲のたのしみ『私の試聴室』」より

おはようございます。名曲の楽しみ。吉田秀和
今日は11月最後の日曜日なので、試聴室。
僕は、最近聞いた若い三人のピアニストの演奏を、皆さん方と一緒に聞きたいと思います。それはね、ただ若いっていうだけじゃなくって、どうも僕の印象だと、この頃ピアニストの中に、一つ、なんか前の時代と少し違ってきたという、一般的傾向として違いがでてきたんじゃないかな、ということを感じさせられるんで。で、そういうことを感じたきっかけになった人たち、その人たちの演奏をご紹介したいと思うんです。
最初はブーニン。と、申しあげると、ブーニンのことならもう珍しくもなんともないじゃないかと仰る方が、多いでしょう。実際、彼は1985年のショパンコンクールに優勝して以来、日本ではとりわけ非常な成功をおさめているし、いわゆるブーニンブームを引き起こしたくらいですよね。だから、そんなことは分っていると仰るかもしれない。だけど、そのブーニンブームを起こしたについては、それを聞いた人が、ことにね、(皆も言ってるし、僕もそう思うんだけど、)若い女性たちで、それまでクラシック音楽なんてあんまりなじんでない人たちが、彼の演奏に非常にひきつけられましたね。これを、ジャーナリスティックに、このブーニンが日本に来た時に、NHKをはじめいろんなところが書き立てたり、(あの〜)放送でやったり、いろいろ、大々的に紹介した、だからみんなが夢中になったという考え方もあるんだけども、僕は、それだけじゃなくて、やっぱり彼の弾き方の問題だと思うんです。
あの、初めて日本に来て、聞くとき、たくさん来たことは事実だけど、その後でどんどん聞き手が夢中になってった、ということは、やっぱり聞いたからですよね。で、何を聞いたかというとね、弾き方が、今までのとちょっと違う。それを、夢中になった人たちはどの程度意識して聞いたか、それは僕にはわかりません。て言うより、今まで聞きなれていないんだから、比較して聞いたっていうんではないと、考えるのが本当ですよね。で、(あの〜)初めて聞いた人の心をとらえるようなことっていうのは、どういうことか。少し理屈っぽくて悪いですけども、例えば僕なんか、(あの)はじめて聞いたとき、すごい才能のある人だけど、弾き方はちょっと気に入らなかった。それは、僕が、今までの弾き方ってもの、ショパンならこうだっての、やっぱり、それによって判断しまいと、いつも心がけているつもりだけど、やっぱり、そういうことが、あったんですよね。随分、違ってるな〜と思って。それで、彼は勝手に弾きすぎているんじゃないか、主観的で、わがままで。僕は、これは、アンファン・テリーブル(怒れる若者)というよりアンファン・ガテ、つまり甘やかされた子どもって方が当たってるんじゃないかって、このNHKで言ったことを覚えています。


で、も、ね。まだ、彼の、ブーニンの演奏の方法に、完全に納得して、これでいいんだ、と思ってる、わけじゃ、ないんですよ。負け惜しみめいて、申し訳ありませんけど。しかし、違いの、この人の違い方は、彼一人の、主観的なわがままなものでも、ないんじゃないか、そういう傾向が出てきてんじゃないか。ブーニンンは、それを、最も、先鋭に、出してんじゃないか。それが、今、皆さんと方と一緒に聞きながら、皆さん方にも判断していただき、僕も、考えてみたいとこです。
で、まず、ワルツ。彼はまた、初めて日本に来て、NHKホールで弾いたとき、ワルツ、ショパンのワルツ、全曲を弾きました。で、これは実は、その時の演奏ではないんですけど。ワルツの7番、作品64の2、嬰ハ短調。次に、64の1。これは、いわゆる子犬のワルツって、とてもポピュラーになったもの。それから、作品42、変イ長調。これはね、ショパンのワルツ全曲のなかで、最も優れたものだという人もあるくらいです。最後に、遺作、ホ短調を聞きましょう。とにかく、すごく鮮やかで、で、自分を少し意識しすぎて、わざとらしいところもなくはないんですけどね。でもね、訴えかける力は、とっても強い。それじゃ〜、ブーニンの演奏で、ショパンのワルツを4曲、つづけて・・・

9. 1991年12月3日 FM放送「私の試聴室」を聴いてNHKへの手紙

ブーニン番スタッフの皆さんへ:新聞のFMラジオの番組表を見て、驚きました。吉田秀和氏がブーニンを取り上げるというのです。最近「レコード芸術」誌の「一枚のレコード」で度々、本論以外のところでブーニンに触れておられるのを知っていましたし、ブーニンの音楽も以前とはずいぶん変わってきていますので、そろそろ、まともにブーニンを取り上げて下さる日も近いのではないか、と思ってはいたのですが。曲目を見て、ちょっと不思議でした。ワルツ? CDになったワルツの録音は1986年!どうしてだろうか…朝9時、期待と微かな不安で聞いたのですが、話の展開が意外な方向へ進むのに驚きつつ、耳を傾けていくうちに、胸がじ〜〜んと熱くなってきました。なんだか訳のわからない感動でした。あれから一週間たち、少し自分の気持ちの整理もつきました。


吉田秀和さん. すばらしい方ですね。言いっぱなし、書きっぱなしの人が多いのに、あの時のご自分の言葉にきちんと責任を取られました。ああいう言葉で、ブーニンファンに応えて下さるなんて、さすが、と思ってしまいます。私は、あの時の吉田氏の感想を酷だとは思いましたが、ある意味では納得もしていました。ああいう方が、ブーニンの初来日初演の演奏、ショパンコンクールの時とは違って、知と情のバランスがコントロールを失って崩れていると私にはそう思えた、あの演奏を「青くさい」ととられても仕方がないと。それと、私は、ブーニンの音楽は、吉田氏の言葉を借りるなら、「アンファンテリーブル」だと思っていました。そして、吉田氏のあの時の「どちらか、まだ区別がつかない」という言葉を真に受けて、吉田氏はまだ判断をくだしておられない、ととっていたのです。ところが、この日の意外な”告白”によりますと、本音は「アンファンガテ」だと思ってらしたのですね。やはり、ブーニンの音楽は聞く人の感情をさらけださせてしまう。吉田氏といえども、冷静ではなかったということですね。
以前、「新しい音楽は、新しい聴衆を生み、新しい批評をも求める」と書いたことがありましたが、この5年、すでに、あの時のブーニンと同じ年頃のピアニスト(セルゲイ・タラソフ)に対する、あの頃の批評とは全く違う批評を新聞紙上に読むとき、5年前にこういう批評が欲しかったという思いと、5年でこんなにも変わったという思いが交錯します。


吉田氏がこういう形で応えてくださったのはどうしてだろうか、と考えますと、行き着くところはNHKのあの番組「ブーニンショパンワルツ集」です。そして、あの時のNHKのスタッフの方たちの番組制作の基本姿勢、「ありのままを伝えて、その上で、若いピアニストのスタートを暖かく支えていく」という、あの姿勢が、批評家と聴衆の交流を生み出したのだと思います。ブーニンを紹介してくださった上に、こんなに素敵な現実のドラマの誕生のキッカケとステージをも提供してくださったことになりますね。これで、ブームの反発からも過分な保護からも自由になって、余分な説明、釈明抜きの音楽のみで正当に評価されるときが来たわけですね。これからがブーニンの音楽家としての才能と資質が問われるときです。NHKホールの初演といい、N響との世界初演の協奏曲といい、ライブのステージでハラハラさせられるのが気がかりですが、「モスクワの清算」(半生記の執筆)も済まされた今年からは、きっと充実した音楽を期待できると思います。厳しい批評(はファンの望むところです)とあの頃よりは少しばかり音楽を聴き馴染んだ耳を持つ聴衆とに鍛えられて…これからが一層たのしみです。
12月に入りましても、あの日曜の朝の、あの番組のおかげで、今も胸の内、とてもホットでウエットです。
これからも、ブーニンの演奏、NHKテレビで楽しめますようお願いします。それでは、変わらぬ感謝とともに・・・
<読み返してみると、まるでPTAみたいな言い方が恥ずかしくて省略ものですが、そのまま恥をさらしておきます>

◎今回、原発事故についての吉田秀和氏の言葉を知って、この一連の吉田氏とブーニンについての経緯(いきさつ)を思い出しました。
ブーニン”反発から受容”ともいえる経緯は、吉田秀和氏の、当時でもあの年齢とあの立場では考えられないほど、瑞々しく正直で繊細で誤魔化しのないお人柄を忍ばせます。そして、自分の言葉に責任と拘(こだわ)りを持つことの大切さを教えられます。亡命に関する音楽雑誌上の発言は、あの当時マスコミにおかしいと声をあげた方は皆無(ではなく、朝日新聞のあの矢野氏の記事の半月後、「論壇」コラムに海外でも活躍している演出家の大橋也寸という方が「ブーニン厄介者扱い なぜ」という文章を寄せておられ「投稿」として掲載されていました。あの記事にたくさん反響があったのかと思わせるものでした)のような状況のなか、本当に心強いものでした。吉田氏のような真に人道主義に基づいておかしいことをオカシイと発言してくださる文化人の輩出をこれからも望みたいです。
ところで、ジャーナリズム、マスコミは、あの頃とあまり変わらない?として、一般大衆である私たちは、どうでしょう。私たちは当時、正しい判断をするための情報交換として、文通、ファックス、コピー機ワープロ、電話等を利用していました。今は、携帯電話やメール、インターネットが加わりました。あの頃よりは私たちの出来ることも変化があるのでは?と自問しています。
吉田秀和氏の言葉、「東日本大震災、とりわけ原発事故は、”最大の絶望”」「あの事故をなかったかのように、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない」という言葉を今かみしめながら、吉田秀和氏の追悼記事を終わります。