スタニスラフ・ブーニン ピアノ・リサイタルと1985年

土曜日の19日5時から、大阪市福島区にあるザ・シンフォニーホールスタニスラフ・ブーニンのピアノリサイタルがありました。久しぶりのブーニンです。丁度一週間前に葉書で曲目変更のお知らせがありました。今回は5ヶ月前に夫を誘ってチケットを取りました。夫は初めてのブーニン体験です。雨の日、早めに出て梅田で本屋さんに、それから環状線で福島へ。
開演時間が来て、ピアニストを待つ前の静寂がスゴイです。紙を動かす音でさえ大きく聞こえてしまうほど、シ〜〜ンという音がするくらい、張り詰めた静けさです。
前半のバッハは「主よ、人の望みの喜びよ」、コラール(賛美歌)3曲とフランス組曲第6番で休憩20分。
後半はドビュッシーの版画・パゴダ/グラナダの夕/雨の庭。ショパンマズルカイ短調エチュード「革命」と「幻想ポロネーズ」。アンコールはシューマンアラベスクでした。
ブーニンさん、猫背の背中が一層曲がって、髪の毛も白っぽく、でも演奏が始まれば昔と変らずでした。
私は今回はショパンマズルカの悲哀と硬質で決然と美しい”革命”がとても良かったです。
ピアノは前回はイタリアの胴長のファツィオリでしたが、今回はホールのピアノだったようです。
大阪の聴衆は演奏を聴いて良かったらプログラムを買うと聞いたことがありますが、私も大阪の聴衆です。”革命”を聴いてからプログラムを買いました。2000円なんて頃もありましたが、今回は1000円。そのプログラムの最後の方に写真が載っています。ブーニンさんがこれまでボランティアでやってきた演奏会の写真です。一番古いので94年の奥尻島の小学校訪問。 奥尻の子供達がブーニンさんの似顔絵を持って写真に写っています(左上)。 95年の阪神淡路大震災も(右上)。 2000年の東京の養護施設訪問の写真には通訳(ドイツ語)を務められたのでしょう奥様の姿も(上真ん中)。 そして驚いたのは今年の「東日本大震災で被災した子供達を支援するガラ・コンサート」の写真があったこと。プログラム1枚目の写真は「あしなが育英会」の会長(車椅子)に目録を渡している写真で、右下にもあります。ガラのステージの写真(右中)には昨年ジャズで協演したという山下洋輔さんをはさんで中村紘子さんが手を繋いで!

ここから急に1985年が甦ってきました。1985年と言えばつい最近ブログで取り上げたデンマーク議会が国策としての原発推進自然エネルギーに切り換える決断をした年ですが、その1985年の秋、ポーランドワルシャワの第11回ショパンコンクールで、「ソ連」の19才のスタニスラフ・ブーニンが自分の全存在をショパンの曲に賭けて演奏し優勝した年でした。NHKが予選から本選までの闘いに挑む若きピアニスト群像として一編のドキュメンタリー番組にして年末近く放送しました。その番組冒頭タイトルバックの曲がショパンエチュード「革命」でありそれを弾くブーニンでした。このシーンだけ予告編のように何回も流されていました。彼のショパンはこのドキュメンタリー番組とコンクールでの演奏(ピアノ協奏曲第1番や英雄ポロネーズなど)を通して日本のなぜか余りクラシック音楽に馴染みのない聴衆の心を打ちました。私もその一人でした。

コンクール優勝の翌年、日本では既にブーニン現象というブームとなり、NHKモスクワ音楽院の学生であるブーニンさんを夏休みに日本に呼びました。この年4月にチェルノブイリ原発事故です。日本がその被災者や子供達に示した支援が、ブーニンさんのその後のお返しボランティアにつながっているのかも知れません。さて、NHKホールでの公演は生中継され、それを聴いた直後の音楽評論家の御大という立場にあった吉田秀和氏にマイクが向けられ、吉田氏は一言「青臭いね」と言いました。20歳前のピアニストのその時の演奏が成熟して聞えなかったというのは当然と言えば当然。でも、マスコミというより、音楽界はこれ以降、ブーニンのピアノを吉田氏自身が10年ほど経ってNHKのラジオ番組で評価を訂正?されるまで、当時のファンの身贔屓で言うと、正当に評価されることはありませんでした。「あぁ、あのミーハーファンのアイドルの…」という扱いが付いて回ることになりました。大学で音楽を学んだファンの人たちの中にはソレが嫌で”隠れブーニンファン”と自称した方もいました。
85年のショパンコンクールの本選まで審査員としてブーニンのピアノをホールで聴き、「100年に一人の天才」と感激して話した大ピアニストもそれ以後訂正、沈黙でした。そして中村紘子さんです。ショパンコンクールの体験者であり、その後審査員にもなる日本の人気ピアニストがキーシンの方が本物というような発言をしました。ファンの間では吉田秀和さんも中村紘子さんも嫌われていました。私のブーニン仲間の一人は吉田氏は”吐き捨てるように「あほくさい」と言った”のだと憤激していましたし、別の年長さんのファンからはブーニンファンなら中村紘子を良く言う人はいないとも言われ、黙ってしまったこともありました。 クラシック音楽が大衆に理解されるわけがないという日本のクラシック音楽界あげてのブームへの反発とも取れますが、私達ファンも思えばみんな若くて(気持ちが?)熱い頃でした。

1985年3月からソ連ではゴルバチョフがトップになり、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)の大改革に着手、推進、ソ連は変ったと西側では大歓迎でした。日本もそのような報道でしたし、私も、もう共産党が支配する全体主義の国ではなく自由な国になったのだと思っていました。しかし、反体制思想のブーニンさんは、体制のプロパガンダとして利用されていると考えていましたし、ショパンコンクールの時と同様、監視役のピアノの先生がついていて母親はブーニンさんが亡命出来ないよう人質として国外公演には同行出来ない状態だったのです。そして、1988年、ブーニン亡命のニュースが。
私が長年読んでいた朝日新聞を止めるようになったのはこの時の朝日の記事が切っ掛けでした。折角自由になったソ連、おまけにショパンコンクールの覇者として特権的な立場にもあるはずのブーニンが、自由を求めて国を捨てるなんて「わがままで」「甘えている」という記事が朝日新聞に載りました。その上、亡命後、イタリアでピアノを弾いているブーニンに日本人記者がインタビューしてブーニンさんが「(日本は)私の夢(の国)」と答えたのが叉火をつけたようになりました。日本のファンの大騒ぎに踊らされて西側世界の日本がバラ色に見えて・・・とマスコミから総攻撃でした。世界的才能のピアニストが日本に住んでは成功するわけがないと今度はブーニンファンからも反発が。これらのことを通して、日本の新聞、マスメディアが一方的な判断や思い込みで記事を書くこと、世間もそれを信じること、音楽界と言えども重鎮先生の鶴の一声になびく世界であることなどを知りました。そして、一般大衆であるファン一人ひとりの賞賛や憧れや励ましの声が、一人の芸術家の運命を変えたり支えたりすることがあることも知りました。
ただし、このとき、ブーニンの亡命を理解できるとただ一人ブーニン擁護、マスコミ批判をマイナーな音楽誌の記事の中で書いておられたのは吉田秀和氏でした。また、ブーニンさんは政治的な言葉と思ってか、ある時から「亡命」とは言わず「移住」と言っておられます。私自身は、夫が持っていた吉田秀和氏の新潮文庫(「名曲300選」だったか?)がクラシック音楽の手引きで、モーツァルトについては小林秀雄吉田秀和かという大きな存在でしたので、このときは本当に信じていて良かったと嬉しかったのを覚えています。モーツァルトをこんな風に聴く方がそんなはずはないという確信!?がありました。
ところで、私がブーニンファンになった頃、息子達は高校生と中学生だったので、丁度いい”子離れ”の切っ掛け?にもなりました。亡命後の「ファンの集い」に若い方達と東京まで出かけ夜行バスで大阪へ戻ってきたり、八ヶ岳の高原音楽堂でのコンサートに大阪から女学生のIさんと出かけたり、今も交流の続く遠方の友達も出来、主婦だった自分の行動範囲や視野を広げることが出来ました。
ファン仲間で回覧ノートを郵送でやり取り、音楽の印象をどうすれば言葉に出来るのか、自分の想いをどうしたら相手に伝える事が出来るのか、文通仲間との意思疎通を通して四苦八苦しました。その後、ネットワークニュースを手書きコピーで発行し、やがて、ワープロになり、幸せになったブーニンさんを見届け?てネットワークは解散、ブーニンファン卒業となりました。ネットワークのお陰で日本の一地方にいても世界が見えると実感したこともありました。そして今はパソコンでブログを書いています。
私自身はその頃と余り変らないミーハーファン、やっていることも同じような?ことで、相変わらずです。
土曜の夜のブーニンさんのショパンは26年前の”革命”の演奏と重なって沢山の思い出を甦らせてくれました。