「負けて、勝つ」と「一茶と子供」

NHK土曜ドラマ「負けて、勝つ」全5回の昨日は最終回でした。
この渡辺謙さんが吉田茂を演じるドラマが始まる前、「戦後史の正体」を読んで私の中でも吉田茂の評価が少し変わっていたので、どんなふうに描かれるのか心配?していました。いまさら「独立を果たした吉田茂」を持ち上げて?・・・なんてチラっと思ったりしていましたが、戦後史のおさらいみたいなつもりで見たドラマにその心配は見事に裏切られました。
政治的な面でも人間的な面でもそんなに美化された描き方ではなく割と公平?に描かれた脚本がまず素晴らしいです。ウンと深みのある捉え方でした。秘書と女性とのかかわりでアメリカ占領下の女性の一面も描かれていますし、妻亡き後の吉田茂を陰で支え続けた元芸者の小りんさんも当時の女性の生き方の象徴です。象徴と言えば、息子の吉田健一吉田茂が進めようとする政治の反対勢力や国民の声を重ねていました。
吉田学校の生徒として、池田勇人宮沢喜一佐藤栄作田中角栄たち政治家が出てきます。サンフランシスコ講和条約締結後、吉田茂は安全保障条約の署名に米軍の建物にたった一人で出かけます。このシーンこそ、戦後の日本とアメリカの関係を決定づけました。表・国民向けには独立、裏ではアメリカに従属という基本の関係が国民に隠されて。そしてその後の自民党による長期政権下、ず〜〜〜と修正されずに今に及んでいます。変化したのは、基本はそのままに、昔は秘密裏にこっそりとだったのが、最近では、おおっぴらに公然と言われるようになったことです。自衛隊を軍隊に、憲法を改正して9条を無くし、戦争の出来る(外国へ軍隊を派遣したり)国に、とか。
マッカーサー吉田茂↑、囲まれて安保にサインする吉田茂←の2枚の写真はウィキペディアより)
吉田茂が内緒にしたのは、独立とはいえ安全保障面で屈辱の従属を受け入れてのことだと自覚していたからですし、それを指摘した息子の健一にはドラマでは殴りかかってその口を封じています。吉田学校の生徒たち、後に総理大臣にもなる生徒たちには本来なら大きな宿題を課せられていたはずですが、それを忘れたのか、忘れたふりをしたのか、国民の指摘にはイデオロギーの対立(左がかった考え)として、自分たちは片肺飛行で経済のみを追求。すべてを先送り、沖縄頼み、で今があります。
白洲次郎が1970年直前に、安保は一方的に通告すれば止めることが出来る、本気なら独立して自前でやってみろ、経済的には今より苦しくなる、それを覚悟する気なら…と言ったそうですが、白洲次郎はあの時の宿題を忘れていなかったようです・・・。
ドラマは戦後史を振り返り、今を確認するよいきっかけになったと思います。ドラマが終わってからNHKの番組サイトを覘いたら主演の渡辺謙さんのインタビューがありました。その中から一部を。演技で意図されていたことが十分伝わる内容のドラマになっていたと改めて思いました。(全文コチラで:http://www.nhk.or.jp/dodra/dodrasp/special/index11a.html

Q ) 戦争の記憶が薄れる中で、この作品が持つ役割とは


A ) 「硫黄島からの手紙」という映画をやった時から常々思っていたことですが、社会や自分も含めて、日本という国が、歴史から学ぶことがとても下手だという気がしているんです。良いことも悪いことも功罪含めてきちんと検証して、それを持って未来への糧にしていくということが。沢山の要素があるので、ひとつの論理で決めることは難しいと思うんですが、様々なことを洗いざらい検証して、また同じ事が起こらないようにやっていきましょうね、ということがあまり得手ではない。


それは戦後に関してもそうで、どういう形で日本は敗戦を受け入れ今の礎を作っていったのか、歴史の教科書にはなかなか載っていないし、僕たちが知ることが無い。近々のことで言えば、地震の事であったり津波原発のことであったりを、全部一度テーブルの上にさらけ出して検証してから先に進みましょう。…ということが、本当に上手くない気がするんですね。僕たちはこのドラマで、「どうだこれが正しい日本の戦後の歴史なんだ」と言うつもりは一切無いです。「こんなことだったのかもしれません」という、もう一度検証するヒントとして、このドラマがあってほしいと思っています。人間ドラマとして楽しんでいただく要素はもちろんあると思いますが、その中の要素のひとつには、戦後の歴史を、もう一度原点に戻ってみるという、そういうドラマに成り得るのではないかと思います。

ドラマの中でGHQのことをGo Home Quicklyのことだと吉田茂が言いますが、あれは本当だったそうです。
ところで、吉田茂と言えば、小学校の同じクラスに吉田くんが居て、下の名前も茂でした。
当時はまだ「末は博士か大臣か…」という時代でもあって、総理大臣が大臣の中でも一番偉い人というくらいは子どもでも理解していました。我がクラスメートの吉田茂くんは、その総理大臣と同姓同名。出席を取る度に何処からかクスッと笑い声が聞こえたり、先生が時には”吉田くんもシッカリしないと!”と声をかけることもありました。子ども心に同姓同名はつらいやろうな〜と思ったこともありました。からかったり囃したてたりしたのは今から思えばイジメだったかも…と思ったり。その吉田くんが亡くなったと聞いたのは何年か前の同窓会ででした。
そのころ大阪空港は伊丹空港といって、米軍に接収されていました。夜ごと空港のある辺りにはサーチライトの白い線が半球の夜空に往復して見えました。空港の乗車駅は阪急宝塚線蛍池(ほたるがいけ)でした。駅の南側に飛行場、北の、あれは待兼山の東側、ずっと後になって刀根山高校が出来た山腹には米軍の将校たちの白い建物が電車の窓から見えました。蛍池の駅に着くとアメリカ兵とそれらしき日本女性が乗り降りします。子ども心に体を固くして見ていたものです。その米兵たちの前で私は踊ったことがあります。

小学校では3学期には学芸会があります。当時の学芸会は運動会と並んで学年の一大イベント。学期を挙げて取り組みます。1年生の学芸会で私は今でも覚えている”♪信州信濃の雪解けて〜、お山は***春がすみ〜、一茶のおじさん〜♪”という曲に合わせて着物を着て踊りました。出だしの”しんしゅう〜しなのの”というメロディを口にするだけで60年以上経った今でも日本の山里の春の訪れを鮮やかにイメージできます。その演目を持って、ある日女先生が今度「いもん(慰問)」に出かけると言われました。学芸会の前だったか後だったかは忘れましたが、私たちはよその学校の児童たちと一緒のバスに乗って蛍池の米軍官舎にでかけました。覚えているのはトイレの便座が異様に高かったことだけです。子ども心に敗戦国の屈辱感?があったのか?自慢することではないと思っていたようです。このことは親も子供たちも先生もあまり話題にすることはありませんでした。
伊丹空港にはもう一度全校生徒で出かけたことがあります。日の丸の旗振りに出かけました。天皇陛下のお迎えでした。先生から注意があって、決して顔を上げてはいけませんと言われました。隣の男の子が、「ボク、見たで」と言ってました。私も上目使いに見たように思います。何を見たのか…忘れてしまっていますが。
こう書いてくると私も立派に?敗戦後の子ども時代を送っていたようです。
ところで、学芸会で踊った「一茶と子供」の歌詞をネットで探していたら、同じように踊ったという人が何人もいることが解りました。どうも文部省が薦めたのか、当時の流行だったのか、歌詞が川田孝子さんが歌った子どもと伊藤久雄さん(♪イ〜ヨマンテ〜の「熊まつり」を歌ったあの!)が歌った一茶との掛け合いになっているので、分りやすく踊りにもしやすかったのか学芸会でよく取り上げていたようです。(写真は私のアルバムから→)



一茶と子供  川田孝子 伊藤久男
加藤省吾作詞/八州秀章作曲

(子ども)
信州信濃の 雪とけて
お山はとろり 春がすみ
さくら花さく 日ぐれ頃
とぼとぼひとり おじいさん
もしもし どちらへ ゆきまする

(一茶)
はいはい わしかな わしならのう
旅から旅の うたよみじゃ
まつりばやしの あの村へ
これからぶらり ゆことてのう

(子ども)
いえいえ こわいで やめなされ

(一茶)
さてさて こわいと いうことを
すこしもわしは 知らなんだ
(なんときつねが でなさると
なるほどそれは ぜひ見たい

(子ども)
そしたらお話 きかせてね

(子どもの合唱)
信州信濃は 夕ぐれて
一茶のおじさん どこへゆく
おぼろおぼろな 春の夜や
もみじいろなす 秋の夜に
詠んではつたえた うたの数                    
(写真は今日「体育の日」の唐池公園・大滑り台↑)