問われる生き方(倉本聰さん、小出裕章さんと松下竜一「暗闇の思想」)

原発のことが最近忘れられているのではないかとテレビのコメンテーターまでが嘆いているのを聞くことがあります。
原発の問題をどう考えるかということは、人間の命、自然、社会、国のあり方についてどう考えるかというほどの問題です。
知らされていない、ということを前提に、知ること、知らせることが必要になっています。
昨日の金曜日、蛙ブログにコメントを下さるブログ主のSPYBOYさんと、hatehei666さんが握手!という嬉しい報告も入っています。お二人の記事を読んでみてください。
・「雨上がりの官邸前で、現実的な態度を考えてみる(笑):★0215 大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議37」:http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20130215/1360936655
・「2月15日の国会周辺デモレポート」:http://d.hatena.ne.jp/hatehei666/20130215/1360939382

昨日は午後からSさんが夫の山の行動食のクッキーを持ってきてくださいました。ついでにお茶にしました。前日、月遅れの「いきいき」を貸してくださっていたので、倉本聰さんの記事の話を。その記事からごく一部を:

 「3・11」にはレコードで言えばA面とB面があります。 A面は地震津波。これは人間にとっては災害ですが、常に変動する地球にとっては、起こるべきシステムのひとつ。被災された方には気の毒ですが、地球上に住む以上、起こり得ることです。
 B面は原発事故。これは完全な人災です。震災後、僕は各被災地を訪ねましたが、原発事故の影響が深刻な福島の様子とそこに暮らしていた人の思いは、他とまるで違っていました。
 地震津波の被災地は、家は倒れ、街はなくなり確かに悲惨な状態でした。しかし、福島には、今も家や街並みのすべてがそのまま残っていながら住めない地域があるのです。どれほど故郷を思っても、帰ることができない。国の政策に振り回されて故郷を失った人々。その悲痛な思いは、「悲別(かなしべつ)」(倉本氏の作品の中の北海道の架空の街:蛙注)の労働者たちの悲しみと重なりました。
 僕はそうした悲しみの中で、人間が頼る希望とは何かと考えた。それが今回の「明日、悲別で」(全国公演する新作舞台)が生れるきっかけでした。
 震災後、京都の宮津へ講演に行った時のことです。会場には1階席に400人の一般の人、2階席に400人の高校生の団体がいました。
 そこで僕は、原発事故後の道として2つの選択肢を示し、どちらを選ぶか客席に尋ねました。一つは今の便利な生活を捨てずに原発のリスクを背負う道。もう一つは、多少不便でも、クリーンなエネルギーの電力で足りるぐらいの少し昔の生活に戻る道です。
 すると1階席の9割が後者を選んだのに対し、2階席の高校生の7割が前者を選んだのです。驚きました。以降各地で同じ質問をしますが、大抵大人は戻る道を選び、若者は便利と原発を選びます。
 おそらく理由は、若者たちが携帯やパソコンのない時代を知らないから。その暮らしを想像できないからなのでしょう。今の便利さを少しでも失えばどうなるか、想像できないから不安がある。希望を見出せないのです。

◎高校生の7割が便利さと原発を選ぶ理由、倉本さんの理由に加えて、私は放射能の怖さを知らないからだと思います。
「青空学園だより」(http://d.hatena.ne.jp/nankai/20130213)さんが紹介されていた「ピープルズニュース」の小出裕章さんのインタビュー記事「生き方そのものが問われている」は、原発問題の今と問題の本質をいつもながら分りやすくお話しされている素晴らしい内容です。本当は全部貼りつけたいところですが、長くなりますので、是非、コチラで全文を:http://jimmin.sakura.ne.jp/htmldoc/147101.htm
ここではその一部を端折りながら:

生き方そのものが問われている
代替エネルギーをどうするか?  経済をどう成長させるか? というレベルの話ではない。
小出裕章さん(京都大学原子炉実験所助教)インタビュー

溶けた炉心の在処、未だに不明/格納容器もあちこちに穴

小出…福島第1原発では4つの原子炉が壊れたのですが、1〜3号機は、運転中、4号機は、定期検査のために停止中で、燃料棒も装着されていませんでした。1〜3号機は、炉心を冷やすことができず、メルトダウンして大量の放射能を放出してしまいました。圧力容器の底に熔け落ちた核燃料は、厚い鋼鉄の底を溶かして、放射能を閉じこめる最後の防壁である「格納容器の床に落ちた」と、東京電力は言っています。私もそう思いますが、その後、熔けた核燃料がどうなっているのか? 実は誰にもわからないのです。

危機的状況続く4号炉/使用済み燃料の取り出し至難の業

小出…4号機は、メルトダウンはまぬがれたのですが、ここには大量の使用済み燃料がプールに沈められています。その放射能総量は、控えめに計算しても広島原爆1万発分です。・プールの中には、1535体の燃料棒が入っており、そのうち1331体が使用済み、204体が未使用です。未使用の燃料棒は、人の手で触っても大丈夫くらいの放射能レベルですので、昨年7月、東電は、試験的に未使用燃料棒の取り出し作業を行いました。燃料の状態を知るためですが、これも未使用燃料棒だからできた作業です。使用済み燃料となると、プールから引き出した瞬間に、周囲の人間がばたばたと死ぬほどの危険物です。

電気料金値上げは、経営幹部の責任追究が大前提

小出…全くふざけた申請です。そもそも原子力発電が、他の発電方法に比べて最も高くつく方法であることは、有価証券報告書を見ればわかってしまっている事実です。「経営難」というなら、この高い発電方法を選んできたという経営上の責任が、関電首脳陣にはあるはずです。

震災がれき広域処理するなら2つの条件満たせ

小出…放射能ゴミの処理原則は、1.発生したところで、2.可能な限りコンパクトにして、3・他の物と混ぜずに閉じこめる、のが大原則です。不幸にして広範な地域が放射能に汚染されてしまったのですが、これを他の地域に持ち出すのは、原則に反しているので、やってはいけません。これが私の基本的態度です。

事故原因もわからないのに「新基準」作って再稼働に進む原子力ムラ

小出…原発は大きな機械ですから、壊れる要因は山ほどあります。人類は、これまでメルトダウンを4回経験しています。1/英国・ウィンズケルにあるプルトニウム生産炉(1957年)、2/米国・スリーマイル発電所(1979年)、3/ソ連チェルノブイリ発電所(1986年)、4/福島原発(2011年)です。

福島原発は、地震津波が原因でしたが、他の3つの事故は、地震津波も全く関係がありません。しかも、どれも予測を超えた事故が起こっています。5番目が起こるとすれば、それは別の要因でしょう。機械とは、そういうものなのです。津波の想定を最大値にしたからといって、「安全が確保された」なんていうのは、バカげています。新基準は、原発再稼働のための手続きに過ぎません。

どんな社会作るのか? 今こそ「暗闇の思想」を

小出…東洋の端にある小さな日本は、欧米を見習う近代化によって、エネルギーを大量に使えるようになり、人殺し兵器も劇的に発展させてきました。西洋型の科学技術にすがって、大国を目指したのですが、それ自体が間違いだったのだと思います。

工業化のために農業を潰し、海を汚染し、沿岸漁業を壊滅させましたが、その当時に松下竜一さんは、声を上げました。海の埋め立てに反対し、発電所建設にも反対しました。それを彼は死ぬまで貫き、晩年は、さらに関心を広げていきました。 工業にどっぷりと依存し、自然を壊しながら「カネ」を追い求めてきた日本の社会の作り方を見直す、という意味で、松下さんは先験的な仕事をなさった素敵な人でした。

「どういう社会を作るべきなのか? 」が最も重要なテーマです。原発事故は、代替エネルギーをどうするか?  経済をどう成長させるか? というようなレベルの話ではありません。私たちの生き方そのものが問われていることに気づいてほしいと思います。

松下竜一さん(1937年(昭和11)〜2004年(平成16))の「暗闇(くらやみ)の思想」についてはコチラで:http://shinsho.shueisha.co.jp/column/jinkai/001/index.html
その一部から:

「国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに。誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならばその文化生活をこそ問い直さねばならぬと。じゃあチョンマゲ時代に帰れというのかと反論が出る。必ず出る短絡的な反論である。現代を生きる以上、私とて電力の全面否定という極論を言いはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめてしばらく鎮静の時を持とうというのである」(『暗闇の思想』)
実践倫理の作家はこの文章を発表した1972年の段階で、豊前火力発電所反対運動を始める。当時、九州電力は住民には「電気が足らない」と説明する一方で本州の企業には「九州には電力が有り余っているのでぜひ進出して下さい」とはたらきかけていた。(玄海原発の再稼動を前にやらせメールで世論を操作する九電の体質は40年前と変わらない)『暗闇の思想』では、発電所を増やせば新たな電力需要が増え、止めどなくあらゆる海が潰される悪循環に陥ることを指摘し、開発だけが善であるという時代の趨勢にクサビを打ち込んでいる。今でいう環境権の概念を提起しているわけである。

「青空学園だより」さんのコチラでも:「暗闇の思想」http://d.hatena.ne.jp/nankai/20130125
(青空をバックに黄色い花の写真は、隣の畑の蝋梅の大木。住宅街の蝋梅は既に終わっていますが、ここはいまだに花をつけています)