NHKスペシャル「メルトダウン File.4  放射能”大量放出”の真相」(その1)

3月16日(日)NHK総合 
メルトダウン File.4  放射能”大量放出”の真相」
(←NHKサイトのイラストから)

語り:世界最悪レベルとなった東京電力福島第1原発事故から3年.人々の暮らしを奪った大量の放射性物質はどのように放出されたのか今も明らかになっていない。


先月、取材班は原発から35km離れた場所(福島県双葉町上羽鳥)で一つの手がかりを見つけた。地震の後止まっていたと思われていたモニタリングポスト.

事故直後の詳細な放射線のデータが3年もの間気付かれることなく残っていた。データを解析すると新たな事実が浮かび上がった。地震の翌日から始まった放射性物質の大量放出. 新たなデータが示したのは、これまで考えれていたより早い時間帯に高濃度の放射性物質が放出されていた事実でした。

何重もの壁で守られていた原発に思わぬ死角があったと専門家は指摘する。さらに放射性物質を封じ込める最も重要な機能がどのように失われたのか.

その詳細も明らかになってきた。

メルトダウンして溶け落ちた核燃料. この膨大な熱で最後の砦、格納容器が”破壊”されていた可能性が浮かび上がってきた。

400人を超す関係者への徹底取材を基に当時の様子を映像化. 独自の科学的な検証から事故の原因を追及してきたシリーズ.
今回は事故最大の謎. 放射能大量放出の謎に迫ります。




吉田キャスター:原発事故から3年. 福島県では今も13万5千人もの人たちが自宅を逃れて避難生活を送っています。
私が立っているこの場所も日中の立入りは出来ても暮らすことはできません。降り注いだ放射性物質の量が多かった地域は復興に向けて動き出すことさえままなりません。
まるで時間がとまったかのようです。
多くの人の暮らしを奪った放射性物質の大量放出. さまざまな事故調査が行われてきましたが、実は今も未解明な問題が数多くあり検証は充分とは言えません。
事故を振り返ってみます。震災発生の翌日. 最も早く冷却機能が失われた1号機がメルトダウン. 水素爆発を起こす。続いて2日後には3号機、3日後には2号機の動いていた冷却装置が止まりやはりメルトダウンしました。ここに放射性物質の放出量のグラフを重ねます。

1号機と3号機の水素爆発の際に短いピークが見られます。しかし最も多く継続的に放射性物質が放出したとみられるのは爆発しなかった2号機です。2号機で一体何が起きていたのか。謎に包まれていた大量放出の真相が明らかになってきました。

語り:原子炉が次々とメルトダウンし建屋の水素爆発を起こした1号機と3号機. しかし最も事態が深刻だったのは爆発を起こさなかった2号機でした。格納容器から放射性物質を大量に放出した2号機.配管のつなぎ目や蓋の部分から漏れたとみられている。


残された汚染のデータを解析した画像です。
2号機からの放出は3月14〜15日にかけて、原発の北西部に高濃度の汚染をもたらした後、関東一円に広がった。



大量放出の原因は何だったのか、先月、1,2号機の中央制御室にカメラが入った。
事故当時津波によってすべての電源が失われ真っ暗になったこの部屋、運転員たちの手さぐりで事故対応に当った跡が残されていた。

2号機の機器は、このボタンを使ったベントと呼ばれる緊急時の操作が出来なかったためとみられている。


ベントは格納容器を守り、放射性物質の大量放出を防ぐ最後の手段です。原子炉の中でメルトダウンが始まるとその熱で格納容器の圧力が急激に高くなり一気に破壊される恐れがある。圧力を下げるため内部の蒸気を抜くのがベントです。
水をくぐらせて放射性物質を取り除いたうえで放出する。しかしなぜか2号機だけがこのベントが全く出来ない状況に陥った。現場で何が起きていたのか関係者への取材から当時の状況が明らかになってきた。証言を元に映像化します。

3月14日の2号機中央制御室. 地震発生から3日間動き続けていた非常用の冷却装置が停止した。
「RCIC(冷却装置)の運転状況確認!」「原子炉水位はTAF(燃料上部)に達しました!」
午後1時25分. 2号機の原子炉では燃料棒を冷やすための水が急速に失われメルトダウンの危機が迫っていた。

当時事故対応の指揮を執っていたのは原子炉建屋から300m余り離れていた免震重要棟です。これまで1号機と3号機の水素爆発の対応に追われていた免震棟. 2号機からの大量放出を防ぐためベントの指示を出した。

当時現場で事故対応に当っていた東京電力の元運転員が取材に応じた。
「まずは格納容器の保護ですね。そこを第一に考えなければいけないので。健全性を失わないためにも保護するためにもベントは必要でしたね」

3月14日の免震重要棟。

語り:すべての電源が失われた2号機中央制御室。ウエットウエルベント用非常用の発電機を使いベントを試みて見たが、しかし、格納容器の圧力は下がらず。現場が疑ったのは、ベントの際、開けなくてはならないAO弁と呼ばれるバルブでした。このバルブは外から空気を送り込むことで開き、格納容器内部の圧力を抜くことができる。バルブを開けるための空気が足りないのではないか。バルブに空気が供給されているか確認するため復旧班のメンバーが現場に向かった。
バルブは原子炉建屋の中にある。すべての電源を失う中、景気を確認する為には直接現場に行くしかない。建屋の入り口には放射性物質を漏らさないための二重の扉がそなえられていた。
復旧班の3人が建屋内に入域。
語り:内部の状況が全く分からない中、放射線量を確認しながら少しずつ進む復旧班。メルトダウンが迫る原子炉からわずか10mの距離。バルブに空気を送るためのボンベがある場所へ。計測器の空気の供給は正常に行われていることを確認。戻った免震棟で報告するが、ベントは実施されず。
ベント弁の不具合か? バルブ自体が故障しているとすれば直す手立てはない。ベントが出来ずにいる間にも原子炉の状態は悪化の一途をたどっていた。メルトダウンによる熱で放射性物質を閉じ込める格納容器の圧力が上昇し始めていた。
「あと1時間で燃料が完全に溶融. その2時間後、原子炉が危険・・・」
語り:まだ最後の手段が残されていた。故障したバルブ以外の予備のバルブです。しかし、いずれも原子炉建屋の二重扉の内側にあった。再び原子炉建屋に向かう復旧班。しかし、事態は一変していた。一瞬で数10ミリシーベルトの被ばくをするほどの高い放射線量。原子炉建屋は蒸気で包まれていた。「退避、退避!」
この後建屋の中での作業は一切出来なくなった。


当時、吉田所長のもと(写真・隣り)で1号機から4号機までの事故対応を指揮したユニット所長は、2号機のベントが出来ない状況について現場から報告を受けていた。
東電福島第一原発・福良昌敏ユニット所長(当時)「早くベントのために大弁(おおべん)や小弁(こべん)なりを開けなければいけないということは決まっていたので、やることは決まっていて、かつ現場がやるべきことをやろうとしていたわけです。2号機は人が近づけなくなってしまったのです、バルブ自体にね」

語り:復旧班が原子炉建屋内に入れなくなったのは、メルトダウンによって大量の放射性物質が出始めていた時間帯です。しかし、この段階では格納容器の圧力は設計上の圧力を大幅に超えていないため放射性物質は大量に漏れ出すことは無いと考えられてきました。
なぜこの段階で高い放射線量が計測されたのか? 国会や政府など様々な事故調査でもこの原因がつきとめられていない。

取材班は原子炉のシミュレーションや原発の設備に詳しい専門家とともに探ることにした。専門家が注目したのは格納容器そのものではなく、これまで見過ごされてきた格納容器の外側にある設備です。

法政大学宮野廣客員教授原発メーカー元幹部)「圧力容器(原子炉)から出てきた上記はこのタービンの外に出る可能性がある」
疑われたのはRCIC(非常用冷却装置)で、電気が無くても蒸気でタービンを回して水を送り込み、原子炉を冷やす仕組みでした。

タービンには原子炉から蒸気が直接流れ込むため、そこから漏れる可能性があるというのだ。しかしタービンの軸の部分は円盤型の4重のパッキンで厳重に塞がれていた。


RCICの軸から漏れることがあるのか、東京海洋大学刑部真弘教授(流体工学の専門家)と共に検証します。



図面を基にパッキンの部分をRCICと同じような再現して蒸気を流し込む。
パッキンにかかる圧力を事故前と同じくする。
この状態では軸から蒸気が漏れることは無い。
事故当時と同じ圧力に徐々に上げていく。

すると、大量の蒸気が噴き出した。
「私が思っていたよりかなり多い値。 放射性物質がかなり出てきた可能性はあります」


なぜ漏れたのか? 実はRCICには”仕掛け”があった。
元々パッキンとパッキンの間には隙間が作ってあり、圧力が高まって蒸気が漏れてきたとしても、ここから吸い出す仕組みになっていた。しかし蒸気を吸い出すための装置が電気がなくなると止まってしまう。こうした状態に陥るとRCICから一気に蒸気が漏れだしてしまう。
「1時間に50キロくらいの蒸気が流れ出ている計算になります」「そんなに流れる?」

語り:漏れだした蒸気の量からみると建屋内部の放射線量が上昇しても不思議ではないと専門家は指摘する。
「蒸気が出ると建屋の中は真っ白になってしまう。蒸気の体積はスゴイ量ですから、だから真っ白になる。拡散していくのは結構速いと思います。」

語り:事故対応に当った元運転員もRCICから漏れているとは思いもよらなかったと言います。
元運転員「事故の当時は私はそこまで気がまわらなかったです。今見返せば、そこはリーク(漏れる)する個所の一つではあると思います」

語り:ベントを阻んだ要因として新たに浮かび上がったのは皮肉にも2号機を冷やし続けてきた安全装置からの漏洩でした。
建屋内の作業が出来ない中、事態は最悪の局面に近づいた。


高まる圧力に格納容器が耐えられなくなっていた。当時の免震棟でのやり取りを記録した内部資料です。
核燃料のメルトダウンが進み格納容器内部の温度が上昇していく様子を克明にしるされていた。
2号機の冷却が止まり危機に陥ってからおよそ11時間。「15日午前0時41分. 炉心損傷率は5%から7%に上昇!」

語り:格納容器からの大量放出が現実味をおびていた。そして午前8時45分. 白い湯気。
正門付近で11,930マイクロシーベルト!」
今回の事故で最大の放射線量が原発敷地内で計測された。
情報班の女性が叫ぶ「東京渋谷でも通常の2倍の放射線量を記録!」


3月15日午前10時. 2号機、煙
2号機から白い蒸気が上がっている様子を捉えた写真。
最後の砦、格納容器が破られ、大量の放射性物質が放出された瞬間でした。

ベントが出来なかった2号機の格納容器は、・?の手立てを受けず封じ込めの機能を失っていったのです。

元東電運転員「当然我々は最善を尽くそうと取り組んでいたが、最善がどんどんマイナスになってしまって、だからこそこういう事象が起きたと思っています。やりたいことはいくらでもあったが、やれることが何もなくて無力感というのですか、すごく残念に思います」

語り:今も帰還を阻む高濃度の放射能汚染. 格納容器に放射性物質を封じ込めることがいかに困難か、2号機が突きつけた重い現実です。 (つづく)