「昭和天皇の手紙と天皇制」(報道特集)


5月3日のTBS,「憲法-直面する課題」に続いて、「昭和天皇直筆の手紙」のニュースです。

アメリカの公文書館で金平キャスターが1950年代のファイルの中に昭和天皇の直筆の手紙を見つけます。
手紙の内容は、アイゼンハワー大統領宛てで、今の天皇陛下のご成婚についてですが、この前後の在日大使館とアメリカ本国とのやり取りを追っていきながら、日本国憲法象徴天皇制について考えます。
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GHQの占領下に在った日本が主権を回復して7年、敗戦から立ち直りつつあった日本ではお祝いムードに包まれた。アメリカはこの結婚をどう見ていたのか:
1956年の文書(結婚3年前):ある夕食会で当時アメリカ大使館のパーソンズ主席公使が当時参院議員だった宮澤喜一元総理と交わした会話を本国に報告した秘密文書。その中で宮澤氏は当時の皇太子さまの将来の結婚について分析を披露したという。「M氏によると皇太子の結婚について舞台裏では2つの派閥の争いがあるという。保守的な派閥は皇太子のお妃は伝統的な5つの家庭の中から選ばれるのが望ましいと考えている。もう一方のグループは皇太子は自分のお妃を自分で選ぶようにすべきだと考えている。そうなれば天皇家が時代に適応していることを示し、日本におけるよい模範となるだろう。」

1958年11月21日午後4時.宇佐美宮内庁長官は自ら正田家を訪れて正式に皇室の御意向、結婚の内定を伝えた。
その前日11月20日の公電が残っている。「アメリカ大使館は、皇室に近い情報源から皇太子と正田美智子さんとの婚約に関する噂は正確である、近く発表されるとの情報を得た。」

保坂正康氏(昭和史の研究者)はアメリカの皇室に関する情報収集能力に注目する:「これは高度の情報レベルが動いているということなんでしょうけれど、当時、マッカーサーの甥御さんが駐日大使だったことも有って、恒常的にそういう情報交換するルートがあったという感じがします。」
アメリカ側は婚約の公式発表後すぐさま美智子さまの人となりや婚約の意義を分析している。「正田美智子さんはカソリックの有名大学の卒業生で英語が堪能なうえ西洋文化キリスト教文化に触れてきたという。この婚約は天皇制の将来にとって大きな意味がある。皇太子はよりリベラルで幅広い教育を受けてきた。彼が魅力的な人柄のお妃を貴族階級の外から選んだことからも天皇制の維持に不可欠とみられる『天皇の人間化』というプロセスが今後も続くことを証明している。」
*多くの公文書で”天皇の人間化”という言葉が繰り返し使われている。アメリカ側が天皇制を分析する際のキーワードとなっていたことが判る。
*読み込んで行くうちにある文書に行き当たった。菊の御紋がついた封筒だ。昭和天皇からアイゼンハワー大統領にあてた手紙だ。中身は当時の皇太子ご夫妻の結婚の報告だ。「わたくしの親愛する皇太子明仁親王が、正田栄三郎の長女正田美智子と本年四月十日、東京皇居に置いて、結婚の式典を挙げたことをここに貴大統領にお知らせしますことは私の喜びに・・・・      

保坂「驚きですね〜こういう手紙をだしていたのは・・・ 文面は率直に大統領に自分の喜びと心配りに感謝するということを明確に述べている。この手紙には昭和天皇の本心がにじみ出ている」
原武史明治学院大)教授(近現代の天皇制研究者)「天皇アメリカに対して喜びを露わにしているのは、儀礼的な意味合いもあるとは思いますが、本音が出ている気がします。」
当時のお二人の結婚を高く評価していたアメリカは式の直前から二人をアメリカに招く計画を進めていた。
1959年3月7日(米国務省⇒在日大使館):「1960年の春、皇太子ご夫妻をワシントンに招待する用意があると日本政府に対して内密に知らせることを許可する。」 

ところが、この計画は当時の日米間の政治状況に翻弄されることに。
1959年12月2日(マッカーサー国務長官):「昨夜山田外務次官が非公式に宮内庁が皇太子夫妻をいかなる政治的問題にも巻き込みたくないと考えていることなどから安全保障条約の批准まで訪米を延期したいとの意向を伝えてきた。」

*訪米が予定されていた1960年の春と言えば、国会では安保条約の批准手続きがまさに最終局面を迎え、国内が騒然としていた時期だ。そのようなタイミングで当時の皇太子ご夫妻が訪米することは皇室の政治利用と受け止められると日本政府が警戒したのだ。
保坂:「宮内庁としても皇太子を巻き込みたくない、天皇制をそこに絡ませたくないという点で本当に慎重な態度を取っていたのが分りますね。」
原:「ミッチーブームが起こって、今までにはない新鮮なイメージが出来た。それにアメリカが注目し、安保闘争の渦中に、それを正当に評価して、巻き込むことをしてしまうと、根本的に覆ってしまう危険性が多分あったと思う。」

*結局、当時の皇太子ご夫妻がアメリカを訪問するのは日米安保条約が発効した後の1960年9月と決まった。訪米前の皇太子ご夫妻は東京のひばりヶ丘団地を視察された。

1960年9月6日.庶民の暮らしを直近に見るためだ。ご結婚して間もないご夫妻が市民の家庭を訪問。それはアメリカの公文書がいう”人間化”を象徴する出来事だった。
皇太子ご夫妻が訪れたのは横井さん家族の部屋。その時4歳だった横井淑児さん(57)は同じつくりの保存されている部屋を見て「シンクのこれが最先端だった当時は。美智子さまが母親の案内で一つづつ、ガスや部屋を見て回ってましたね。」
原:「あの皇太子ご夫妻が何を体現してきたかというと、それはアメリカ的なライフスタイルも同時に体現していた面があった。ちゃぶ台ではなくテーブルがあって、1960年当時は団地で、あの行啓が、すごく印象的でしたね。」


*皇室に新しい風を吹き込んだ若い皇太子ご夫妻は、国民と皇室の距離を縮める役割を果たした。アメリカに向け出発した当時の皇太子ご夫妻の座席には生まれたばかりの今の皇太子さまの写真が置かれていた。ハワイ、ロサンゼルス、ワシントンとおよそ2週間のアメリカ訪問では各地で市民の熱烈な歓迎を受けた。
ニュース映像:「一般の市民の方はどういうお感じでしたでしょうか?」(とマイクを持った日本人記者)「Crown Prince(皇太子)は、一寸堅苦しい。Princessは、とても魅力的です。アメリカ人、大好きです」(一般のアメリカ人が日本語で答えられるとは思いませんので、当時の打ち合わせ”やらせ”かな〜by蛙)。

*米公文書館に残る資料の中には、アメリカが新しい憲法のもとで象徴天皇制が日本に根付いている様子を分析した複数の資料が残されている。そうしたアメリカによる分析は、天皇制が戦前のような軍国主義に利用される危険性がないかという視点で貫かれている。
1957年2月26日(在日米大使館⇒国務省):「新憲法下で象徴とされている天皇の地位を変えて、より具体的に元首としての地位を与えるべきだという心情が存在するが、戦前の精神化された天皇を復興したいという願望はほとんど存在しない。」

保坂:「この時の、日本大使館からアメリ国務省へ送る電報がなぜ重要かと言うと、丁度石橋湛山内閣が昭和32年の1月に倒れ、その後、岸さんが首相になるんですが、岸さんの政治路線というのは、憲法改正、旧体制に帰って行くんじゃないかと言う不安もアメリカ大使館の中にはもっていたのかな〜と、その中で、天皇制が利用されてはいけないと、…」

*それから半世紀以上が過ぎた今、自民党天皇を元首と位置付ける憲法改正案を発表している。
保坂:「この改憲案(平成24年4月27日決定)の第一条は、やはり、戦後の歴史の色んな流れ自体を全く踏まえていないな〜というのが、率直な感想です。
象徴として営々としてその実績を作ってきた天皇皇后両陛下の努力に対して私たちは謙虚にならないといけないと思うんですね。
この一条はその謙虚さに欠けているんではないかと率直な印象です。」
2013年4月28日「主権回復の日』式典に出席。安倍総理を先頭に列席者突然のバンザイあり)

2011年4月27日「東日本大震災被災地を訪問」

2009年11月6日「即位20年の記者会見」でのお言葉:「・・・象徴天皇として望ましい天皇の在り方を求めつつ今日まで過ごしてきました。日本国憲法天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関与する権能を有しないとも規定されています。この条項を順守することを念頭に置いて、私は天皇としての活動を律しています。

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金平:「国立公文書館は現代史を研究する人にとっては宝の山。
アメリカという国は、どこかの国と違って、自分たちがやったことは歴史によって審判してもらおうというフェアな精神がある。
そこに寄って今回得た情報というのは、今の憲法を考える上で非常に重要な示唆を含んでいると思いますね。」