父の誕生日と古い新聞(大正12年3月3日)

一昨日は父の98歳の誕生日でした。
以前からの約束通り、ヴィソラマーケットパークでイタリアンランチを予定していました。
前日のコーヒータイムに、杖をつきながら来たので、聞いてみると、朝は何でもなかったのに、椅子から立ち上がるときにどうにかなって腰を痛めたとか。軽いぎっくり腰のような感じなのでしょう。大丈夫かな〜と心配。もし、そうなったら、明日は私がイタリアン料理のランチメニューで我が家で誕生会をすればいいか・・・とお昼に夫に話したら、夫はその方がワインも飲めるし、それでいいよという話に。午後、夕刊を取りに出た父を見ると杖を使っていません。「どう?」と聞いたら「治った」とのこと。それはよかった。
ということで、萱野のヴィソラでイタリアンランチを頂きました。3人分のセットメニューがあったのでそれを4人で。シーザーサラダと2種類のパスタとピッツァと最後に熱いレモンティー。母は東日本大震災の年に圧迫骨折でしたので、3,4年ぶりのお出かけです。カルフールからイオンに変わっているのもよく知らないので、千里中央や梅田の阪神・阪急百貨店より、ここが遠かったというわけです。
父も一生懸命食べて美味しそうでした。去年のことを考えると夢のようです。生きて98歳を迎えられている、それも健康で…というのは有難いことです。先日は週一回通っているリハビリデイサービスでもお誕生祝いをやっていただいたようです。連絡帳に書いてあったとか。最高齢で頑張っています。
さて、そのイタリアンに出かける前のことです。夫が車の修理で車庫が空っぽになっているのをチャンスとばかり、母がスチール製の物置から古い葛籠(つづら)を出してきました。父は加賀市大聖寺の実家の長男です。それなのに、弟に実家を譲って大阪でサラリーマンになってしまいました。実家を継いでくれた次男のおじさんが若い(50代?)頃病気で亡くなって、実家が人手に渡る際に木箱と葛籠一杯に思い出の品を大阪に送り込みました。母はそれが気になって仕方がないのです。残されたら一番困ると思っている母は、とにかく一度父の目を通して処分するものは処分したいと常日頃から思っていました。それが分っていたので、車庫が空いているその日は好都合と葛籠を開けにかかりました。これは私も何をおいても手伝わないわけにいきません。
まず、アウトドア―に使うパイプ椅子、ディレクターズチェアのようなのを開いて、腰を痛めている父を誘い出しました。空っぽになった車庫につづらを広げることに。箱の中には掛け軸や巻紙や写真や葉書が入っていました。掛け軸は全部開けてみて、父にチェックしてもらい捨てるものと残すものを決めました。
父の父親は表具屋というか襖屋さんというか、人を使ってそういう仕事をしていた人だそうです。父が大学入学の時に亡くなって、それがきっかけで父は大阪へ出て働きながら夜大学へ通うという道を進むことになったのでした。その父の父親、私の祖父は趣味人だったようです。加賀百万石の前田利家の弟が殿さまの大聖寺藩の城下町という土地柄もあってか、絵も書も、お茶もお花も謡も、という人だったと聞いていました。そのせいか、巻物の中にはお花の免許皆伝とかお茶の免許状とかがありました。表千家裏千家の茶人の揮毫をまとめた手帳とか。古びた掛け軸の中には大聖寺の絵の先生とかおじいさん直筆の掛け軸とか、父が中学生のころ描いたというものまで、ありました。それらは残す方に、誰が描いたか分らないものは捨てる方に、とこれで葛籠一つ分は片付きました。
底に敷いてあった新聞に母と私が声を挙げました。あめ色に変色した新聞は大正12年昭和3年のもの。そして何枚かの絵葉書が出てきました。上の3枚の写真は昭和3年の「大阪毎日新聞」です。下は大正12年(父7歳、母2歳)の「新愛知新聞」です。コチラは時勢が分る内容です。


一緒に出てきた御大典と平和紀念の絵葉書、こちらは改めて・・・