思わぬ出会いと母からの手紙「召集令状から国立療養所入院まで」     

大雨のあとでも咲き続けているクレマチス

隣の実家の赤いツツジはそろそろ咲き終わり、隣で咲き出したピンクのサツキ

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土曜日の午後、大雨続きの翌日の晴れ間でしたが、夫はシルバーの外仕事・公園清掃の仕事で午後から出かけました。私は郵便局でサンルームの扉の修理費の振り込みを済ませ、信号を渡って今度は銀行へ。入口のところでK氏とバッタリ。10数年前、民生委員の会議の席で隣りに座って話しているうちに小学校の数年先輩であることが分かりました。

市の文化行政に長年関わっておられ、民生委員でも市の役員をされていて、自治会やPTAでも何かと大きなお役を務めておられます。たくさんの肩書をこなしておられますが、私とNaさんは会うたびに我が地域のボランティア活動の民主化はこの人がいる限りは無理といつも話しています。我が校区のボランティアはK氏のお気に入りか知り合いのメンバーばかり。別ルートで話が来た私は異質。小学生のネグレクトの問題で、上が動くように求めたことがありましたが、個人的な話をしたことはありません。今でも年齢より若く見える一寸したイケメンさん。

あれから10年以上、噂には聞いていても実際に会うことはなかったのです。それが、バッタリ。マスクしていてよく分かったこと…と感心? K氏は以前のような生気あふれるという感じではなく、いい感じのオジサンです。髪の毛がまっ黒じゃなかったせいかな。

人気のない銀行の入り口でばったり出会えば、そこはコロナ禍、笑顔で「お~元気か」と言われれば、こちらも久しぶりの生笑顔ですので、つられて思いがけずも笑顔になります。「コロナ大変やな~接種は?」と聞かれました。「決まってます、来週かな。そちらは?」「7月」と仰ったかな、「遅いですね」「心臓やアチコチ病気してるから、特別で、病院の傍にある、あこでやってもらう」とか「持病があると大変ですね、副作用が怖いですし」と私。「箕面も府内ではわりに感染者が多い方になりますね」「そうやな~」「やっぱり、都心との行き来でしょうか」「そうやな、そうやと思う」「大変ですね」「みんな大変やと思う。元気で頑張りや~」「そうですね、お互い、コロナが終わって又元気で会いましょう」「そうや、そうや」と。スッカリいい人じゃありませんか、みんなこれでやられるのね。

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  (西洋アジサイアナベル、そして柏葉アジサイも白く色づき始めて)


◎さて先日、WEB面会が失敗に終わった後、母がすぐ手紙を書いて出してくれました。整理していた引き出しの奥から出てきた昭和20年~21年にかけて描かれた父のスケッチブックについて(クレマチスと亡き父の昭和20~21年療養所時代の画帳より - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com))、私が葉書で質問していたことに答えてくれています。

珍しく横書きなのは、日付を書くため。おぼろげに聞いていたことがハッキリして驚いています。私は敗戦の前の年の4月に生まれました。出産は母の実家の加賀市保賀でした。父の実家は一里(4キロ)ほど離れた同じ加賀市大聖寺。加賀百万石の前田の殿様の弟のお城がある城下町だったとか。

聞いた話ですが当時は栄養状態が悪く母のお乳も思うように出ず、農家さんから牛やヤギのお乳を貰って助かったとか。出産後1か月半ほど経って6月5日に豊中岡町に戻っています。以下母のメモを書き移してみます:(名前のところは私と父に変換)

  昭和19年(4月 誕生)

       6月5日 豊中へ帰る

       6月6日 召集令状が来る

       6月7日 大聖寺へ皆で帰る

       6月9日 東京へ  入隊する

  昭和19年8月まで と2人で豊中にいました。

      9月に 石川へ帰る

      10月に 外地に出るので面会に来るように※通知があり

          ※生後6か月ほどの私を連れての母親と三人で上京する。

      その後、幹部候補になるための身体検査で引っかかりました。

(蛙注:レントゲン検査で肋膜に影があるとされ熱海の結核療養所へ)

  昭和20年3月ごろに、熱海から石川県(片山津)の国立療養所へ移りました。

  その後、3年程療養所生活だったので、良かったと思っています。

  その当時 大阪へ出てきても大変ですから・・・今はコロナで大変ですが・・・

 

 ※この時の通知について、母から聞いていた話では、当時、葉書や手紙は検閲があって外地に出るということは書けなかったそうです。それで、前もって2人で約束して暗号を決めていたそうです。なんだかおもしろい話で私はその暗号とやらが知りたくてしつこく聞いたことがありました。暗号というより二人で取り決めた『言葉』だったらしく、母によると、よく覚えていないけれど「何とかの花が咲いた」か「風が強い」とか・・・の暗号文を決めていて、その文言が書かれていたら『外地へ行く』という事だから面会に来てほしいという取り決めだったそうです。

当時は北陸本線米原(まいばら)まで出て東海道線に乗り換えて東京まで1日がかりだったようです。その汽車も満員で、乗り換えの時か東京駅で降りる時だか、一人が先に降りて赤ちゃんの私を乗客の手を借りて窓から出したということでした。生き別れになるかもしれないと思いながら母親と妻と娘三人が会いに行った時のことがなんだかリアルです。

それにしても、石川県(加賀市大聖寺から汽車で7,8時間もかけて、親子三人やっと自宅に帰ってきたかと思ったら翌日赤紙が来て、次の日にはまた3人で実家へ戻り、2日後には出征で東京へ…こんなひどいことをみんな文句も言わずに従っていたのですね。

中にはそれで生き別れた人たちもたくさんいたわけですから、本当に理不尽。その結果が正義どころか隣国の侵略、自国の兵隊たちは飢えで何十万と異国で骨になり、沖縄は米軍の過酷な銃撃にあい住民は逃げまどい、挙句に本土も大空襲に原子爆弾2発も落とされ・・・これで無益な戦争をまたやりたいなんて言い出す人が現れるなんて世の中は二度と御免です。