葛籠(つづら)の中の平和紀念切手と絵葉書(大正八年)


昭和天皇即位の記念絵葉書です。
右上の俯瞰図は「即位禮紫宸殿御式場之図」、
右下は「承明門ヨリ紫宸殿ノ儀ヲ望ム図」と書いてあります。
当時の切手代が書いてあります。
「内地ニハ……… 壱銭五厘 切手
 外國ニハ………  四  銭 切手」

赤紙召集令状が1銭5厘だったということがわかります。
「暮らしの手帖」の花森安治に「見よぼくら一銭五厘の旗」という長い長い詩がありました。その中からごく一部を引用です:

満洲事変 支那事変 大東亜戦争

貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ と

どなられながら 一銭五厘は戦場をくた

くたになって歩いた へとへとになって

眠った

一銭五厘は 死んだ

一銭五厘は けがをした 片わになった

一銭五厘を べつの名で言ってみようか<庶民>

ぼくらだ 君らだ


引用元:http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/hanamoriyasuji.html


上の写真の左は「帝国軍艦 陸奥 三三八00噸」と書いてあり、製造年月日から、起工大正7年、進水大正9年、竣工大正10年10月24日とありますので、この葉書は大正10年以降のもの。
上の右の写真は「(金澤)兼六園 明治紀念標及戦士蓋忠碑」とあり、今も兼六園にある像だとか。消印の日付は「大正十四年直江津五月十日」なっています。
左の写真は、「明治三十七八年戦? ”陸軍凱旋観兵式紀念”」とあります。
英文は「Issued by Department of Communications as a souvenir of the Army Review held in Tokio after the War」。
人物は左から、Kuroki, Nozu, Yamagata, Oyama, Oku, Nogi, Kodama, Kawamura.
差出人は、歩兵第七連隊医務室と名前(父の実家のお向いさん)の前に書いてあります。
明治37〜38年の戦争とは、「日露戦争(英語: Russo-Japanese War、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国ロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。」(Wikipediaより)
最後の葉書は大正8年の消印のある「平和紀念」の絵ハガキです。

スタンプにも「平和紀念」と書かれていて、この絵葉書を従兄あてに出した博正という方の文面がまた平和の喜びを表しています。この方は横浜の貿易会社に勤めてアルゼンチンに行き、そのまま第二次大戦で日本に帰れなくなって戦後もアルゼンチンで暮らした方だそうです。この当時はまだ金沢在住です。この手紙を書いたのはまだ20歳そこそこの青年だったころと思われます。読み取れないところもありますが、こんな風に書かれています(どなたか読み解ける方は?):

平和克復


満天(?)愁雲悉く散じて
晴空一碧
萬物生気を(新?)る
世は再び平和(?)光明(?)
浴するを得たり      


 1919-7-1

大正8年(1919年)に終わった戦争とは? ネットで調べるとヴェルサイユ条約締結のほかにも2つの出来事が載っていたのでそのままコピーしました。ということで、この葉書はヴェルサイユ条約締結で戦争が終結した平和紀念の絵葉書だったとわかりました。

大正8年=1919年

[世界の出来事100年史]
1919年(大正8年)
ヴェルサイユ条約締結 (大正8年、己未)



[人物重大ニュース]
ヴェルサイユ条約締結
6月28日、国際連盟規約と、ドイツの連合国に対する領土や財産の譲渡を盛り込んだ、ヴェルサイユ条約が締結された。日本は西園寺公望牧野伸顕を送り、山東半島のドイツ利権および赤道以北のドイツ領諸島を無条件に譲り受けることを要求しほぼ貫徹されたが、山東問題の正式決着は持ち越された。[切手、7月1日発行]ハトとオリーブの枝
三・一独立運動
3月1日、ソウルのパゴタ公園で各界の名土が署名した独立宣言が読み上げられ、労働者・市民らは「大韓独立万歳」を声高らかに叫びながらデモ行進した。デモ参加者は数十万人にも膨れ上り、この動きは平壌ピョンヤン)、安州(アンジュ)、開城(ケソン)など朝鮮全土に広がった日本は軍隊と憲兵を増員して弾圧。蜂起は4月末までに大方鎮圧されたが、参加者は200万とも1000万ともいわれ、死傷者は官憲側が166人、蜂起側が2000余名といわれているが、実際にはこの何倍にものぼるといわれる。
5・4運動
パリ講和会議での山東半島問題に抗議して、北京の学生3000余人が、5月4日デモ行進を行った。東京の中国人留.学生もこれに呼応して、5月7日、2000人ほどが参加して国恥記念デモを行った。5・4運動を契機に抗日運動は各地に浸透。日本商品の不買運動が行われた。

ところで第一次世界大戦と日本のかかわりは?ということで調べてみました。

日英同盟に基づく参戦

シュリーフェンプランを採用したドイツ帝国陸軍がベルギーに侵入したことを確認したイギリスは、1914年8月4日にドイツに宣戦布告した。膠州湾租借地を本拠地としていたドイツ東洋艦隊による通商破壊を防ぐため、イギリスは日英同盟に基づいて日本に対し参戦を要請した。日本が中国における権益を過度に拡大させることを懸念するイギリスは参戦地域を極東および西太平洋に限定しようとした。日本はこれに反対し、一旦参戦した場合に戦闘に参加する地域を限定することは不可能であると主張した。両国の折衝を経てイギリスは参戦地域を限定しないことを認め、日本政府は1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、ドイツはこれに回答せず日本は8月23日に宣戦布告した。

大隈重信首相は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになる。

◎面白そうですが、項目だけ並べてみますと:
「1.2 青島・南洋諸島の攻略、1.3 陸軍の欧州派遣要請、1.4 海軍の船団護衛参加、2 対華21ヶ条要求、3 シベリア出兵、4 ドイツ人捕虜への待遇 4.1 戦後 5 影響 5.1 経済への影響、5.2 アメリカとの関係悪化、5.3 日英同盟解消」
*引用元:「第一次大戦下の日本」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC

◎それにしても6月28日に第一次世界大戦が終わり、7月1日に平和紀念切手が売り出され、平和紀念絵葉書に平和を喜ぶ文面を綴って「ハトとオリーブ」の紀念切手を貼って従兄宛に出された葉書の現物を見て、一気に大正時代を身近に感じました。このころからの戦争と平和が今の日本に確実に続いている。第一次大戦中の中華民国に要求した対華21か条の要求が、アメリカの警戒心を呼び起こし、アジアでの日米関係に緊張をもたらし、そして日米開戦、敗戦、占領、日米安保体制、沖縄、集団的自衛権行使容認(憲法九条形骸化)。そして今東京にもオスプレイ…繋がっているな〜と思います。
(最後の「平和紀念」絵葉書のスタンプは「金澤/大正8年7月20日」です)