大正生まれの両親を偲んで(その2)

◎戦争中の昭和17年(1942年)に結婚した二人(26歳と21歳)でしたが、結婚式を挙げた後、母は『家風見習い』で父の実家暮らしが続きました。厳しいお母さんだったと母が言っていました。遊んでいてもいけないからと、ご近所の縫物を預かって着物の仕立てをさせられていたそうです。私の記憶にあるお祖母(ばあ)ちゃんは、あの辺りでは幼児には白身のお魚を食べさせることになっていて、カレイの身をほぐして食べさせてくれる優しいお祖母ちゃんでした。

ところで、年を越してお正月過ぎ、まだお許しが出ない母を父が迎えに来ました。これは最近(5年前に父が亡くなってから)聞いた話で「お父さん、カッコイイ!」と思って聞きました。父は「会社の仲間に『今どきそんな話があるか』と言われた。連れて帰る」と言ってくれたんだそうです。

豊中市桜塚元町での新婚生活が始まったのは、昭和18年(1943)の1月からということに。阪急宝塚線岡町駅、駅前の原田神社横の商店街を突き抜けたところにお寺があり、向かいには小さな公園、お寺の脇を少し入ったところの小さな借家住まいでした。戦後、7歳(1951年)の8月まで私もここに住んでいましたので家のことは覚えています。角の家で焼き板塀で囲まれた庭がありました。

昭和19年(1944)4月21日、私は出産の為帰っていた石川県の母の実家で生まれました。1ヵ月ほどして父が母と私を迎えに来て豊中の家でやっと親子3人での暮らしが始まった矢先、母の話では1週間後、赤紙召集令状が来ました。父、28歳の年です。

(ネクタイ姿が父、一人置いて赤子の私を抱く母)

本籍地で出征になりますので又3人で大聖寺へ戻ることに。父は皇居防衛で共立女子大學の屋上で高射砲を撃っていたそうです。昭和22年(1947)生まれの妹の長女が、共立女子短大を卒業していて、父は懐かしいからと上京して妹や孫の案内で屋上を訪ねたそうです。父の晩年、母が入院して父の食事を私が担当していた頃、今聞いておかなければと思ってその頃の話になり、「撃ち落としたことある?」と質問したことがあって「当たらなかった」と父は答えていました。

それから、戦況が悪くなる一方で、父たちも海外に派兵されることになり身体検査で肋膜に影が見つかり、父は熱海の国立結核療養所で敗戦を迎えることになり、その後、本籍地の石川県の国立石川療養所に転院。一緒に幹部候補生で兵隊になった方たちは、南方へ向かう船が沈んで全員帰らぬ人になったそうです。

母は乳飲み子の私を抱いて父の実家と母の実家を行き来していました。戦後の物のない時代なので、母の実家でヤギのお乳をもらって私に飲ませていたそうです。私を連れて見舞いに行くと、子どもをこんなところに連れて来るんじゃないと父に叱られたという話も母から聞きました。実家でも肩身の狭い思いをして、お嫁に行くとき作ってもらった着物を近隣の農家さんに買ってもらってお金に換えていたとか。

でも、母は父は幸運だった。療養所にいる限り父は食べることに困らなかったから。もし親子三人で豊中へ戻っていても食べるものがなく却って命が危なかったかもしれないと言っていました。父が療養所を出て会社に戻ってからのことですが、給料の代わりにサッカリンが支給され、サッカリンを現金に換えるのは各自に任されたそうです。

その頃、我が家に泥棒が入り、洋服を盗まれて、リュックサックに詰めて逃げる泥棒を母が「ドロボー!」と追っかける姿を見たという記憶になっています。私は家の前で母に「頼むね」と言われて、その辺りの同い年や少し年上の子と遊んでいたので、とても責任?を感じていたようです。

その家で昭和22(1947)年と24(1949)年生まれの妹二人が誕生します。記憶に残っていませんが、どちらも産婆さんを呼んで自宅で出産。ある時、末っ子の妹が歩けなくなった事があって両親は日当たりの悪い借家を出る決心をしました。豊中市は住宅地として開けて土地も家賃も高いので、郊外の不便だけど空気が良くて、土地や家が安く手に入りやすい箕面に決め、府営住宅を申し込んで当選しました。箕面川の近くの建売住宅で母に連れられて下見に行ったのを覚えています。私は6、7歳でした。ところが、駅の反対側、東の住宅街の外れに住んでいた父の友人から土地と家の話が舞い込みました。

昔のアルバムを見ていたら、豊中に居た頃、幼児の私の手を繋いだ父が箕面の滝道を歩いている写真がありました。母が抱っこしている写真も。これは妹二人だと思うので、家族そろって箕面の滝道を歩いていたのか、まさか滝まで行ったとは思えないし。でも、豊中に住んでいて、休みの日に箕面へ遊びに来ていて、自然豊かな箕面へ来たいと思ったのかもしれないと思いました。

(右:妹二人と両親。中:私と父。家族で箕面の滝道歩き? 左:父と私か妹か?)

さて、箕面に誘った友人の名前は吉野さん。この方は、大聖寺の実家の隣に住んでいた方で父とは同い年。箕面に来るなら自分が買った空き家になっている離れを買って住んでくれないかという話でした。家に凝って結局自分で住めなくなった人がいて、そこを買ったけど広すぎて困っている、離れ部分と土蔵の蔵がある西3分の1を買って住んでくれないかと云う話です。

離れは変わった造りで、北に畳6畳の部屋があり、北側2間(畳の横2枚分の長さ)が全面押し入れ、襖続きで欄間のついた南側の8畳間も南側がふさがっていました。部屋の4隅の上下に空気穴が設けられていて、木の蓋を推すと上下に開いて風が通ります。6畳間の東側に小さな窓が一つ、8畳間に小さな窓が2つある暗い部屋でした。畳は入っていなくて誰も住んだ形跡はありません。長い廊下で吉野さんの本宅と繋がっていて真ん中に玄関がありました。廊下部分を切り離して、西側の二部屋分を切り離して売るという話です。

生活に必要な台所、トイレ、風呂場、玄関を自分たちが建てなければならないのに、両親はコチラを選びました。1年生の2学期を引っ越し先で迎えたかったという弱みがあったので、夏休みが終わるギリギリに安く売らされた(借家をその頃は買い取っていた)と母がよく言っていました。引っ越してから、元いた近所で「えらい高い値で売っていった」と噂されていたと知った母は足元を見られていたと悔しがっていました。

引っ越したのは昭和26(1951)年、私は2学期から転校して箕面の小学校に通うことに。そして、二人のお祖母(ばあ)ちゃんは私が3年生の時相次いで亡くなりました。学校を休んだことがなかった私は忌引きで休んだ後、登校するとき、初めて疎外されたような変な違和感を感じました。

父を箕面に呼んだ吉野さんは私と同い年の竹ちゃんと上にお兄ちゃんがいましたが、二人の息子の教育のことで、2年後くらいに家を売って大阪の瓢箪山と言うところへ引っ越していかれました。その後、持ち主が変わり、今は3度目の方が自分で建てた家に住んで40年以上になります。

父のファイルの中に、増築のイラストが挟んでありました。

右側の増築部分のイラストの下から、板張りの4畳半の部屋、玄関、トイレ、ふろ場。上部の描かれていない部分は、勝手口と台所。完成に間に合わず、9月になっても大工さんが来ていたのを覚えています。一間(180cm)ほど空いて蔵が建っていました。子ども部屋が欲しくなったころ、ここに二段ベッドを大工さんに拵えてもらって、妹たちはベッドで、私は畳を敷いたところで寝ていました。勝手口と蔵の間に大工仕事でトタン屋根を張ってもらい、足元は板を寝かせて通路にしていました。

母は庭に大工さんに頼んで鉄棒を作ってもらっていました。鉄棒のある家は珍しかったので、近所の子どもたちが大勢遊びに来ていました。新聞紙を丸めてチャンバラごっこもよくしました。5時ごろ、ラジオの「新諸国物語」が始まると一斉に家に帰ってラジオにかじりつくのがその頃の子どもでした。

鉄棒は2段あって、高い方には父が縄でブランコを造って末の妹がブランコに乗っている写真がありました。鉄棒で遊ばなくなったころには布団を干すのに役立っていました。吉野さんが飼っていた白い犬が子を産んだので、母が茶色の可愛い子犬をもらってエスと名付けて飼うことになりました。私が高校3年生の頃まで生きていましたので11年は生きていたということに。(つづく)

左:中学2年の私、背後は玄関の横の3畳間(父のイラストでは下の部屋)。

中:母と20歳の私。二人とも母お手製の服、背後は蔵と勝手口の間の出入り口。

右:中1の時描いた愛犬エス