「兄はスパイじゃない」(北大生『軍機法』冤罪事件)1

◎昨年12月山の雑誌に載っていた記事から「スパイ冤罪事件と秘密保護法」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20131217/1387236013)という記事を書きました。

北海道大学の学生が戦時中の法律で逮捕、戦後すぐ、それがもとで亡くなった宮澤弘幸という方を取り上げたものでした。記事を書いた山野井氏は元新聞記者で、「秘密保護法」との関連でこう書いておられました。

 宮澤弘幸らを一斉検挙した「軍機保護法」が、当時の議会で抜本改定論議された時、暴走に歯止めをかける付帯決議や軍・政府による答弁がいくつも残されたが、改定成立後はすべて無視された。・・・・・軍機保護法の再来である秘密保護法案が成立すれば、宮澤弘幸とその家族やレーン夫妻らを襲ったのと同じ悲しみと苦しみが、あなたとあなたの家族に、私と私たちの家族の身に起きる。それが、「秘密保護法」だ。だから法案の中身が少し手直しされたとしても本質はあの「軍機保護法」と全く変わらない

 宮澤弘幸は戦後、占領軍による超法規措置で釈放されたあと、再会した岳友(前回記述)マライーニに対し「裁判は茶番だった」と語ったという。そして、その後伏した死の床にあって「北海道のことは必ず書く」と言い残して27歳の若さで命を落とした。落としたというより奪われたのである。

◎7月、たまたま見つけたNHKの案内で深夜(7月15日 0:40〜 1:25)に放送された地方発ドキュメンタリー「兄はスパイじゃない」を録画しました。内容は宮澤弘幸さんの妹さんの取材を通して兄宮澤弘幸さんのスパイ事件を追ったものでした。書き起こしてみました。

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秋間美江子(87)さんは、戦時中兄がスパイとして刑務所へ送られました。
太平洋戦争が昭和16年(1941)12月8日始まった。北海道帝国大学の学生だった宮澤弘さんが親しいアメリカ人に軍の秘密を漏らしたとして逮捕、懲役15年の刑を受けて戦後まもなく亡くなった。問われた罪は軍機保護法違反軍事上の秘密の定義があいまいで拡大解釈される恐れがあった
事件から73年。秋間さんは兄の無実を訴えるため今なお苦闘を続けている。あの時代、国に奪われた兄の名誉を取り戻したい。「ご自分のお子さんが”スパイ”と言われたらどうですか? そしてその兄弟姉妹である私がいろんな人から石を投げられました。それは多分私がスパイの妹だったからだろうと思います」。あの時代、”スパイの妹”と呼ばれた妹の記録です。

今年2月、秋間さんは2年ぶりに日本へ戻って来た。50年前、夫の転勤でアメリカに移住。たびたび来日してスパイ容疑で逮捕された兄の無実を証明しようと活動を続けている。
秋間美江子さん「とにかく、あんな間違いをされたら困るんですよ」

秋間さんが大切にしているものがある。兄、宮澤弘幸が残したアルバムです。家族の記録写真や大学時代旅行した時のスナップ写真などが宮澤さん自身の手でまとめられている。
宮澤家は東京の裕福なサラリーマン家庭でした。
秋間さんにとって8歳年上の長男弘幸さんは自慢の兄、英語が得意、スポーツ万能。学校の行進でも常に先頭でした。秋間さん「いつでも学年代表で旗手。上の兄とケンカした覚えがない。あちら(兄)の言うことがいつも正しい」
昭和12年北海道帝国大学入学。好奇心旺盛な学生だった。

2年後、大学の外国人教師と日本学生とでサークルを結成。ドイツ人やイタリア人、フランス人などもいた。語学を勉強したり、互いの国の文化について語り合ったりする集まりで宮澤さんは多くの友人を得た。特にアメリカ人英語講師、ハロルド・レーンさんには息子のようにかわいがられた。二人は一緒にハイキングに行くなど家族ぐるみの付き合いをするようになった。
宮澤さんとの交流を覚えている外国人がいる。サークルで親交のあったイタリア人研究者の長女、ダーチャ・マライーニさん:「宮澤さんは私たち家族とも親しくしてくれた。宮澤さんも父もスポーツが好きでした。スキーや水泳などに情熱をもっていました。」

工学部2年で陸軍戦車学校の訓練に参加。一方で宮澤さんは愛国心の強い学生でもあった。陸軍が募集した学生向けの合宿訓練に志願して参加。その時の興奮を詳しく残している。「教官はいかにも軍人らしく簡潔で徹底的。この点では軍隊式がとっても嬉しかった。数百の戦車が天地を轟かしながら突進。戦争とはなんと偉大な現実であろう。」(手記より)

イタリア人研究者の妻トパーツアさんは、当時の宮澤さんの国を大切にする人柄をよくおぼえていると。「宮澤さんは礼儀正しく正義感の強い日本人でした。だから国に背くようなことは決してしていません。それだけは確信しています。」


昭和15年。しかし戦時色が濃くなるとともに国内では外国からのスパイに対する見方が厳しくなっていた。
そして昭和16年3月、軍機保護法改正。「軍事上ノヒミツヲ探知シ、又ハ収集シ外国人ニモラス等ノスパイ行為」を行った場合の最高刑が死刑とされた。

こうした中、宮澤さんは外国人との交流をやめるよう特高警察から忠告される。しかし、親しくなった友人たちとの付き合いを変えることはなかった。

その年の昭和16年12月8日朝、宮澤さんは、「帝国陸海軍は本8日未明西太平洋に置いて米英軍と戦闘状態に入れり」のラジオのニュースに飛び起きた。アメリカが敵国となったことで宮澤さんはレーンさんの身を案じます。レーンさんもすぐ大学内の外国人官舎に駆けつけた。その時の様子を妹の秋間さんが戦後兄の宮澤さんから直接聞いた。
秋間美恵子さん「戦争は国と国でやっているので個人でやっているんじゃないと言ったらしいです。でも先生がアメリカ国籍だから困ることがいっぱいあるかもしれない。その時はどうぞ弘幸に言って下さい。」

しかし、宮澤さんの周囲にはすでにその時、警察の監視の目が光っていた。その日の午前中にレーンさんはスパイ容疑で逮捕。宮澤さんもレーンさんに秘密を洩らしたとして逮捕された。東京の家族には逮捕されたこと以外詳しいことは一切伝えられなかった。状況の分からないまま両親は札幌に向かい、秋間さんは自宅で留守番。すると数日後、突然数人の私服の警察官たちが土足で上がりこんできた。物音がして居間を開けてみると異様な光景が広がっていた。父や兄が買い集めた洋楽のレコードがめちゃめちゃに割られ部屋中に散乱していた。秋間さんは言い知れぬ恐怖を覚えました。(つづく)