「兄はスパイじゃない」(北大生『軍機法』冤罪事件)3

軍機保護法」では軍事上の秘密は範囲が細かく定められておらず、陸軍大臣、又ハ海軍大臣ハ軍事上ノ秘密保護ノ為必要アルトキハ命令ヲ以テ決メル」とあります
そこで判決では、どんなに一般的に知られていることでも国が秘密であると言えば「秘密ニ属スル」と判断されていたのです
事件の調査をしている郷路征記弁護士「旅行している中で自然に知る。そのことが軍事機密を探知したとされた。法律の概念が拡張されて用いられたとっても悲惨な例だと思います。

こうした「拡大解釈」はなぜ行われたのか?
調査に協力した専門家は”国家の意にそぐわない活動は厳しく統制”する思惑があったと分析します。
小樽商科大学荻野富士夫教授「戦争そのものも一部の人のかつてのような戦争ではなくて国民全体の総力戦の戦争ということになると、当時の政府への批判的な見方や政府の都合の悪い考え方をスパイを名目にして排除していく、国民の思想の引き締めをやっていく」。
秋間美恵子さん「あんな事件がなかったら私の兄はまだ生きているはずなのにと思うと、悔しいというか、あのころの政治の力というか、国の力をものすごく怒りたい。」
罪を着せられて亡くなった兄。せめて名誉の回復だけでもしてあげたい。おととし(2012年)86歳になった秋間さんは北海道大学と話し合いを持ちました。
宮澤さんは逮捕後間もなく退学したことになっている。北大を愛していた兄が自分で退学届けを出したはずがなく退学処分を取り消してほしいと秋間さんは申し出た。
北大「退学を免じるということはないので」。秋間「退学届を見せていただきたい」「それが見つからないのです。ただ記録によると…」「その記録を早速に取り消していただきたいと思います」「・・・」。
「70年以上も前のことなので、もうわからないかも知れない」。兄の名誉回復は難しいとこの時秋間さんは考えていた。

今年5月。2年ぶりに北海道にやってきました。
宮澤さんについて新たに分かった事実を報告したいと北大から連絡が入ったのでした。
ところが到着早々倒れこんでしまった。
がんの手術を5回受けている秋間さん、87歳の体に長旅の疲れがのしかかる。

大学との話し合いは非公開で行われた。大学側が見つからないとしていた退学願。宮澤さんが所属していた工学部の文書の中に残っていた。宮澤さんの自筆であることは秋間さんが確認しました。厳しい取り調べを受けていた拘置所で書いたものとみられる。
北大に迷惑をかけたくなかったのかも知れないと秋間さんは考えている。そして、もう一つ、秋間さんの予想もしてなかったものが大学側から示された。

戦後の文書綴りの中にそれはありました。宮澤さんの復学願です。
軍機保護法違反」の嫌疑は無罪放免になったので大学に戻りたいという内容でした。日付は逮捕された日と同じ12月8日でした。この日から止まった時間を再び動かしたいという執念からか。大学側がこの復学願を受理していたという記録も見つかった。
この日、秋間さんは一つの決意をしました。兄が残したアルバムを大学に寄贈することにしたのです。73年前、北大生が巻き込まれた事件をずっと忘れないでほしいと思っています。「私はアルバムが自分の手元から離れるので涙が出ますけれども、兄はすごく喜ぶと思います。私が一人でこれを見ているよりは、北大の学生さんたちが見てくださったほうが、北大の歴史も多少わかるでしょうし、ずっとずっとずっと効果的だと思います。」
退学願いと復学願が見つかった後、大学から秋間さんに提案があった。
語学が優秀で国際感覚を持った学生を表彰する「宮澤記念賞」を創設したいと言います。宮澤の名が残るならと秋間さんはこの提案を受け入れた。
アメリカへ帰る日、兄や両親が眠る東京のお寺で最後のお墓参りをした。「またしばらく来られないからね」。
宮澤家が背負い続けた事件がようやく区切りがついたと報告しました。「もうこれで私は純粋な秋間美恵子になるわけです。宮澤美恵子じゃなくて、と私は思っております。」
しかし、どうしてもぬぐいきれない気持ちがあります。
なぜ家族がこんな苦しみと戦わなければならなかったのか。
夢と希望を抱いて北海道へ渡りすべてを奪われた兄。
息子の無事だけを祈り網走へ通い続けた母。

スパイの妹として隠れるように生きてきた自分。
あの事件さえなければ…
「無念ですよ。私は暗〜い暗い暗い人生でしたから。誰だってね、明るい人生、持たなければ、人生って一つしかないんです。
命って一つしかないんだから。それを十分楽しく正しく発表して過ごせる毎日を作ってください。」
73年前、国の秘密を守るという法律のために人生を狂わされた家族がいた。二度と同じ過ちを繰り返してほしくない。私たちに託されたメッセージです。(おわり)