月曜日の午後、先週から約束していた大津の義兄のお見舞いのため義姉の家に向かいました。
3時のおやつは持っていくのでと連絡してありましたので和菓子屋さんに寄ってから名神で瀬田西へ、そこから名神を降りてしばらく走って3時過ぎ到着。お茶とお菓子で義姉にその後のお義兄さんの様子を聞くことに。誤嚥性の肺炎になってリハビリが中断されたことからその後のリハビリが進まず、今は両手も硬直、寝たきりの様子だそうです。4時から病院ということで、三人で車に乗って琵琶湖沿いの病院に向かいました。
お風呂が済んだ後だったようです。私たちが来たことはわかってくださって、「ありがとう」という言葉は何とか聞き取れましたが、お義姉さんも聞き取れない言葉がほとんど。筆談でと思っても両手が使えず無理。何回か話そうとされるのですが、聞き取れず、ご本人ももどかしそうです。何とか意思疎通の方法が図れるといいのですが・・・。
ベッド周りには娘さん家族からの励ましのメッセージが置いてあったり、お義姉さんと二人の娘さんが交代で世話をしているということでした。6時の病院の食事の世話を終えた後一緒にお食事をして…と思っていたのですが、お義姉さんが「大丈夫、いいから早よ帰って・・・」とおっしゃるので引き上げることに。
去年、傘寿のお祝いにみんなで箕面で一泊して一か月もたたない内の事故でした。二階の階段の上から落ちて打ち所が悪かったのですね。義姉は玄関がガレージの上になっている今の家はもうあきらめています。今の状態では家に戻れる可能性は低く、長期の看病に備えて家を売ってマンションにという考えも。以前、義姉からの電話に、「下の娘さんと一緒に住みはったら〜」と言ったら、「アカン、あの子とはケンカになるから一緒に住む気はない」とのことでしたが、今回は少し気が変わって”二人で住むためのマンション”という考えもあるようでした。
いままで何事も二人で相談しながら決めてきたことを全部一人で考えて決めていかないといけなくなった義姉。「ご自分の体、気を付けてくださいね」と言って別れてきました。その間も、二人の娘と携帯メールで連絡をとりあったり忙しそうでした。あんなに早くメールが打てる義姉はサスガです。70歳でパソコン教室に通ってパソコンの知識は私以上かもしれないシッカリ者で働き者で気丈な義姉です。
さて、琵琶湖岸をもと来た道を走り出した帰路、今回、初めて瀬田の唐橋を渡りました。
いつもナビ任せで、遠くのインターチェンジを案内され、一度は変なところへ迷い込んだこともあって、今回はナビには頼らずに。すると瀬田西のICがすぐそこです。看板を見たら「瀬田唐橋西詰」と出ていますので、「これが瀬田の唐橋!!」でした。
長くて立派な橋です。西詰で信号待ちをしていると古民家風の建物も見えます。橋を渡った東詰にも古い建物がありました。
「瀬田の唐橋」として名高いということは知っていてもなんで? そこでWikipediaです。
(『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋)
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。
宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている。
東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。
本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。
本能寺の変〜天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。明智光秀に本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった。
江戸時代以降は、膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。
木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。 2012年(平成25年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。
◇武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋
(東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。)
松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。
◇五月雨に隠れぬものや瀬田の橋