「花子とアン」から「村岡花子と柳原白蓮」


NHKの朝の連続ドラマは残りあと9月一か月を残すのみ。「ごちそうさん」に次いで、明治・大正・昭和を生き抜いた女たち、男たちを描いた今回のドラマ、夫も珍しく毎日見て、テーマソングが鼻歌で出てくるまでになっています。
そこで、「花子とアン」の村岡花子柳原白蓮の二人を取り上げてみました。

◎まず、父の愛読書「文藝春秋」、月遅れで私の手元に届いている8月号にドラマの原作本の著者である村岡恵理さんがエッセイを書いておられます。
それによりますと、「祖母(花子さん)が亡くなる二日前に書いた随筆『大阪の休日』に赤ん坊だった私が登場している。大学勤めの父の仕事の関係で、当時私たち家族は大阪の池田市に住んでいた。そこに祖母が遊びに来た時のことが綴られている」とありました。
村岡花子さんが隣りの池田市に!! こんなことでもグ〜〜ンと身近になってしまいます。
◎ところで、ブログ仲間のmwengeさんは、専門のアフリカとの関わりで村岡花子をこう書いておられます。
(引用元:http://d.hatena.ne.jp/mwenge/20140826/1409005130


 いまNHKの朝ドラ「花子とアン」で、ラジオで子供向けにお話を始めた村岡花子は、ラジオ局から与えられる原稿に手をいれているが、すべて許可がいる。ある意味での検閲だが、花子は「ごきげんよう」という言葉を入れる。放送局はしぶしぶ許可したものの、視聴者からの反応が大きいことに、頭の固い局側の男たちは驚く。ものを書いたり、発表する側の、検閲に対するささやかな抵抗だ。


 村岡花子は、児童文学の翻訳家として、すばらしい仕事をしてきた。南アフリカの作家アラン・ペイトンの小説、『叫べ、愛する国よ』 を村岡 花子 は1962年に翻訳出版している。南アフリカアパルトヘイトを強化していく時代に、人種差別の不条理を描いた作品を、よくぞ選び出して、日本に紹介している。人間性をベースにした文学への揺るぎない眼差しがあったことを改めて思った。

◎明治生まれの女性で当時女学校の高等教育、それもカナダ人のキリスト教による教育をうけている女性たち、芯が通っていますね。村岡花子さんのお父さんはドラマでは行商しながら社会主義活動にも関心があり、活動に関わっていたようにも描かれていました。10歳の娘に東洋英和女学校の給費生としての教育を受けさせるぐらいですから進歩的だったことは確かですね。
お孫さんの恵理さんは文春のエッセイで、「それにしても(山梨の)安東家の人たちの顔は確かに黒すぎる。祖母の家は貧しいとはいえ、実際は商家だった。以前大河ドラマ龍馬伝』で香川照之さんの演じる岩崎弥太郎役のメイクが汚いと話題になった。三菱から不満の声が上がったとも聞いた。その時は他人事として笑っていたのだが、そのバチが当たったのか。・・・・」と書いています。
◎ところで、「文藝春秋」8月号にはもう一つ興味深い記事が特集されていました。
花子の”腹心の友”葉山蓮子のモデル、柳原白蓮に関する記事です。
福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻だった白蓮は、結婚後10年、滞在先の東京で、7歳年下の社会活動家の宮崎龍介と駆け落ちします。その宮崎龍介の手記が全文再録されています。
その白蓮さん、Wikipediaでは:


柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日 - 1967年(昭和42年)2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎曄子(火へんのアキです)(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)。大正三美人の1人。白蓮事件で知られる。


父は柳原前光伯爵。母は前光の妾のひとりで、柳橋の芸妓となっていた没落士族の娘奥津りょう。東京に生まれた。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「曄子」と名付けられる。曄子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅は曄子の引き取りを願っていたが、正妻の初子がそれを阻止すべく曄子を自分の手元に引き取ったという。生母・りょうは1888年明治21年)、曄子3歳の時に病死している。(「曄」は、火へんに華のアキコ)

宮崎龍介と出会うまでを簡単にまとめて書いてみますと:1900年(M33)、無理やり結婚させられた翌年、15歳で男子を出産。1905年(M38),子どもを残す条件で20歳で離婚。柳原家では「出戻り」で幽閉同然の生活。読書に明け暮れる4年の後、兄義光夫妻に預けられる。1908年(M41)兄嫁の縁で東洋英和女学校に23歳で編入学、寄宿生活に入る。(ここから朝ドラ「花子とアン」では仲間由紀恵の蓮子で登場。)このころ佐々木信綱の短歌の会で活動。村岡花子と親交を深め”腹心の友”となり、1910年(M43)3月、卒業。その年九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と見合い、翌年1911年(M44)結婚

◎さて、「文春」の宮崎龍介の手記は、昭和42年(1967年)6月号に「柳原白蓮との半世紀」の題で掲載されたもので、全文採録されています。
二人の出会いについては(Wiki):
「1919年(大正8年)12月、戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌『解放』に発表。これが評判となって本にする事になり、打ち合わせのために1920年大正9年)1月31日、『解放』の主筆で編集を行っていた宮崎龍介が別府の別荘を訪れる。龍介は7歳年下の27歳、孫文を支援した宮崎滔天の長男で、東京帝国大学法科の3年に在籍しながら新人会を結成して労働運動に打ち込んでいた。新人会の後ろ楯となったのが吉野作造ら学者による黎明会であり、『解放』はその機関誌であった。」

龍介は、「曄子が気取ったところがなく、誰に対しても率直に意見を述べ、自分の中に一つのしっかりしたものを持つ、当時の女性としては珍しい個性に惹きつけられた」。手記では、「曄子はかわいそうなものに対する同情、涙もろさを持つ反面、非常に強い自我を持っていました。反抗心といってもいい。何であれ自分の自我を抑えようとするものには徹底的に反発するというタイプの女でした。感情面の弱さと意志的な強さ、この両面が曄子の歌や文章によく表れています。曄子の文学的才能は、この相反する二つの性格によってさらに光を増している気がしました」として、「柳原も伊藤も、曄子のこういう性格や才能を見抜いて、大事に生かし、伸ばしてやろうという気がなかった」と断じています。


そして1921年(大正10)10月、曄子最後の上京、22日の朝日新聞朝刊社会面に伊藤伝右衛門宛ての絶縁状が掲載されます。その全文の中から一部を:
「…私の生涯は所詮暗い幕のうちに終わるものだとあきらめたこともありました。しかし幸いにして私にはひとりの、愛する人が与えられ、そして私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにしておいては、あなたに対して罪ならぬ罪を犯すことになることを恐れます。最早今日は私の良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。即ち虚偽を去り真実に就く時が参りましたよってこの手紙により私は金力を以て女性の人格を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊重を守り且つ培う為に、貴方の許を離れます。長い間私を御養育下さった御配慮に対しては厚く御礼を申し上げます。・・・・・」


この後も曄子は柳原家によって監禁され、二人は離れ離れに、その間、風の便りに子どもが生まれたと聞いた龍介は男女どちらにも通用しそうな「香織(かおり)」という名前を付けて出生届けを出す。
二人が一緒に生活できたのは1923年(大正12年)9月1日の関東大震災がきっかけでした。その後龍介は結核を発病。子ども二人を抱えて曄子が筆一本で一家を支える時代が続く。
龍介は手記をこう結んでいます:私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自身があるわけではありませんが、すくなくとも私は伊藤や柳原の人々よりは曄子の個性を理解し、援助してやることができたと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。 曄子の骨は相模湖の裏側の石老山にある顕鏡寺という寺に納めました。…曄子が心から可愛がっていた香織の骨といっしょに納めました。その寺の坊さんと、「極楽へ行く道も一人で行くんじゃなくて、最愛の息子と二人連れだから、まあ淋しくないだろう」と話したことでした。

白蓮という名前は九州で歌を発表していたころにつけたペンネームですが、最初のこども香織についてWikipediaでは、

1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件で緊迫する中国との和平工作の特使として、龍介が近衛文麿首相の依頼で上海へ派遣されるが失敗、神戸で拘束されて東京へ送還される。曄子ら一家は家宅捜索を避け、蓼科の別荘に避難した。1944年(昭和19年)12月1日、早稲田大学政経学部在学中の長男・香織が学徒出陣し、翌1945年(昭和20年)8月11日、所属していた陸軍・鹿児島県串木野市の基地が爆撃を受けて戦死した。享年23。終戦のわずか4日前であった。香織戦死の知らせを信じず、公報の知らせを捨てた曄子は涙も出ず、ただただ呆然とした。夜になって一人、庭で慟哭した。


1946年(昭和21年)5月にNHKラジオで子供の死の悲しみと平和を訴える気持ちを語った事をきっかけに、「悲母の会」を結成し、熱心な平和運動家として支部設立のため全国を行脚した。年の半分、家を空けていたときもあるという。会は外国とも連携して「国際悲母の会」となり、さらに世界連邦運動婦人部へ発展させた1953年(昭和28年)10月、世界連邦婦人部部長としての講演会で、出奔事件以来32年ぶりに九州・福岡の地を訪れている。



1961年(昭和36年)、緑内障で徐々に両眼の視力を失う。龍介の手厚い介護のもと、娘夫婦に見守られ、歌を詠みつつ暮らした穏やかな晩年であった。1967年(昭和42年)2月22日、81歳で死去。

◎龍介の手記の中で「死ぬまぎわまで、『ひょっとして香織がお母さんただいま、と帰ってくるんじゃないか』と言ったりしました。香織が死んで二十年以上たっても片時も忘れられないようでした」と紹介されている短歌を:

英霊の生きてかへるがありといふ子の骨壺よ振れば音する


かへらぬをかへるとかりに楽しみて子が座をおきぬわれと並べて


母は好きとほほにより来し子のぬくみふと思ひいづる日向ぼこして

◎亡くなる前の年の「短歌研究」誌に寄せた歌が最後の作品になったというので、その辞世の句を:

月影はわが手の上と教へられさびしきことのすずろ極まる


昨日と云ひ今日とくらしてうつそ身の明日のいのちをわが生きむとす


そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ


いつしかに八十とせ生きてつかの間の露の命のことはりを知る

村岡花子さんの写真はネットの映像を、白蓮さんの写真はWikipediaからお借りしました。)
◎白蓮さん、お顔だけを見る限り儚げでとても意志の強い方には思えませんが、感受性が強い白蓮さんにとって虐げられた前半生はとても気の毒です。それにしても、戦死した長男香織が忘れられず、それが社会的な平和運動にまでという一途さは感情と意思との一致という白蓮さんならではです。
今朝の「花子とアン」では戦時色が濃くなり、NHKの統制が一層厳しく、また女性作家が従軍記者になるお話でした。NHKの今の様子と少し重なるのがちょっと気味悪いですが、村岡花子といよいよ「赤毛のアン」との出会いです。すでに今週の火曜日に収録は終わったとか。来月27日まで、二人の生き方の見納めまで楽しみたいと思っています。