大正生まれの両親を偲んで(その1)

◎70代は両親を見送るための10年だと思って過ごしてきましたが、1年おつりが来ました。父は大正5(1916)年生まれ、母は大正10(1921)年生まれ。二人の出身地は、最近では石川県の加賀市で一緒になりましたが、父は加賀百万石の殿様前田利家の弟が藩主の大聖寺藩という城下町の生まれです。実家は大通りに面した町屋で、今も京都で見られるような格子戸の入った家でした。通りから見たら分からないのですが、奥が深く庭になっていて蔵があり、庭の真ん中には井戸が掘ってあり、水は濾過して飲まないといけないとういので、土や砂や木炭が入った水槽を通った水以外は井戸水を直接口にしてはいけないと言われていました。街の名前も大聖寺の寺町とか京町という名前が残っていましたし、美味しい和菓子屋さんがたくさんあったのも元城下町だったからと母から聞いていました。私が小学校の頃は、まだ蒸気機関車の汽車で夏休みになると田舎に帰っていました。大阪から7時間かかる大聖寺駅で下車して、歩いて行ける場所でした。

一方、母の実家は山代温泉の隣にある村、石川県江沼郡南郷村字保賀(ほうが)でした。大聖寺と保賀は一里(4キロ)程離れていて、田舎に帰ると、大聖寺で父の末の妹の叔母さんに従兄たちと一緒に海水浴に連れて行ってもらったり、飽きた頃には保賀の一番上の従兄に自転車で迎えに来てもらったり、あるいは、バスに乗って母の実家に行って従弟たちと遊んでいました。

今の加賀市に住んでいた二人がどうやって大阪の豊中市岡町に住み、その後引っ越して70年以上も箕面に住むことになったのか、振り返って見ると大正時代に生まれ育った二人を通して、大正モダンボーイとモダンガールの精神や大正デモクラシーの片りんに触れることが出来るのではないかと思って、二人の供養もかねて覚えている限り、思い出す限りを書いてみようかと思います。両親は個人史をブログに綴ることを好まないだろうと思いますが、生きている者の特権を行使してみます。ごめんなさい。

両親はモボ、モガと呼ばれると、そんなモダンな恰好はしてなかったと反発するかもしれませんし、本当はその頃に青春時代を送った人たちのことなので、両親は15年程遅く生まれています。でも、その時代の空気を吸っていたお陰なのか、二人の生き方を振り返ると当時(昭和の10年から2,30年代)では最先端の考え方で「革新的」だったのではないかと私は思っています。大都会とは程遠い田舎の街と村で、どうしてそんな考え方を身に着けたのか分かりませんが、読んでいた雑誌からなのか、今となっては想像するしかありません。

◎まず、モボとモガについてWikipediaです:

モボモガとは、それぞれ「モダンボー」(modern boy)、「モダンガール」(modern girl)を略していった語。1920年代大正9年から昭和4年まで)の都会に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた、当時は先端的な若い男女のことを、主に外見的な特徴を指してこう呼んだ戦前日本若者文化では、最も有名な例である。「モダンガール」の語の発案者は新居格だという説もある

時代背景・社会風俗など[編集]

銀座通りを闊歩するモダンガール
1928年撮影)

大正年間は、日本が連合国の一国として参戦し、戦勝国となった第一次世界大戦にて日本の国益が大きく増進し、主な戦場であったヨーロッパから遠かったため、戦争状態に置かれた連合国への民需、軍需双方の輸出が増大したこともあり、「戦勝国中立国両方の利益を得た」と言われた。

国内事情も好景気に沸き、消費文化や流行の輸入品(舶来品)が旺盛な消費活動を刺激し、また機械化・合理化された産業発展が女性の社会進出を促し「職業婦人」も加速度的に増加していった。

上流階級の正装として高価で限定された従来の洋装が、産業の機械化と購買力をもった職業婦人とともに若い男女に広がるようになり、イギリスをはじめとするヨーロッパの先進国やアメリカの流行の輸入品や風俗の一部を取り入れるようになった。

この時期、大正デモクラシー」の時流に乗って、男性に限られてはいるがヨーロッパでもまだ多くの国で取り入れられていなかった普通選挙が実施され、教育の分野においては大正自由教育運動がおこり、かつては一部高等子弟にだけ許された高等教育が徐々に一般庶民へも拡大し、個人の自由や自我の拡大が叫ばれ、進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれた。(黒太字by蛙)

新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。

ただし、珍奇な恰好をするのは「ろくな人間ではない」という考えの保守的な一般庶民や田舎の視線からは、洋風の異装をにわかに身に付けた習慣をひけらかす軽薄な風潮だという世間の顰蹙もまた広まった[1]昭和3年に実施された普通選挙の実施により議会制民主主義が根付き、自由な気風が続くかと思われたものの、昭和10年代前半(1930年代後半)に入ると、世界恐慌の影響と支那事変の中で、こうした華美な風俗は抑制されて姿を潜める結果になった。

◆父の実家について。母に聞いた話では、父の父親は養子で家業は襖屋だったとか。仕事は職人に任せて自分は謡や仕舞いなど趣味に生きる人だった。父は6人兄弟姉妹の真ん中。姉二人と弟二人と末に妹が一人。姉二人は兄弟同士と結婚して日本統治下の南洋の島で暮らしていました。戦争に負けて引き揚げて来て、母子家庭になっていました。

長男でもあった私の父は、金沢大学を受験して失敗、浪人中に父親が亡くなり、大学進学を諦めて親戚のオジサンの紹介で大阪に出て製薬会社に勤務しながら夜学に通うことになりました。当時は会社にサッカー部があり、サッカー仲間との集合写真が残っていました。母親(私の祖母)は大阪の娘さんと恋愛結婚でもすれば大聖寺に戻ってこないと思って、父が25歳くらいの頃、お嫁さん探しを始めました。八卦見に見てもらって山代温泉の方角が良いということでした。

◇母は保賀の庄屋のような農家の5人娘の3番目でした。大きな前庭の横に蔵があって、前庭で俵に米を詰め込んでいるような記憶があります。小学校の低学年の記憶なのでモノの大きさは実際の倍ぐらい誇張されていますが、消防団が使うホースみたいなので庭の水まきを伯父さんがしているのを見て大きなお屋敷だな~と思っていました。

戦前は百姓仕事はしないで小作に田圃を貸していて、父親は村の村長さんのような役目をしていたそうです。学校の行事のときは父兄の代表の席に羽織はかま姿で座って、二番目のお姉さんが優秀だったので自慢だったとか。母も成績が良いと雑誌を買ってもらっていました。それぞれ女学校まで出してもらっていますが、一番下の妹は勉強が嫌いだから行かなかったと、これは叔母さんから直接私も聞きました。

母の一番上の姉は婿養子を親戚からとっていましたが、腎臓が悪く30歳ごろに亡くなって、末っ子がまだ小さかったので、女の子のいるシングルの方と再婚。三人息子の二番目は丁度思春期で受け入れられず、馴染めず、なんとか家を出たいと思っていたようです。勉強の良く出来た次女(母のすぐ上の姉)は東京の商社マンと結婚して世田谷に住んでいました。戦争中、父が外地へやられる前に会いに行った時、泊めてもらったそうです。

母が通ったのは大聖寺にある女学校で、通学には一里の道を歩いて通いました。バスも通っていたけれど、女学校へ行かせてもらっていたのは村で一人、みんなは子守をしたり家の手伝いをしているのに、自分だけバスで通わせてほしいとは言えなかった。寒い日も暑い日も4キロの道を歩いて通っていたとか。冬、友達と通学中、雪の積もった道路わきに男の子から雪の中に顔を漬けるように命令されたことがあったそうです。母は小顔で母親譲りの彫の深い顔をしていたので、鼻が目だって型が付くのをからかわれたらしい。

女学校を卒業して、母は同じ村の親戚のおじさんが校長先生だったこともあって、小学校の先生になりました。当時は「男先生が戦争に取られて先生不足だったのよ」と母が言っていました。昭和14(1939)年のことですので日中戦争ですね。そういえば、こんなことがありました。私が中学校くらいの頃、家の周りをうろうろしている中年のおじさんがいて「先生の家か?」と聞かれたことが。当時の教え子だった方が母を訪ねて来られたのでした。先生をしてたのは本当だったと思った出来事でした。

当時から先生の仕事は大変で、毎日、翌日の授業計画案を出すのに残業だったそうです。先生同士の共働きをしている先輩の女先生を見て、母は仕事も家庭も気になって大変な共働きだけはしたくないから先生とは絶対結婚したくないと思ったとか。

◆◇ある日、母が授業をしていると廊下をうろうろしながら教室を覗く人が二人、一人は赤ちゃんをおんぶしています(父の一番上のお姉さんとおんぶされていたのは私の従兄ということに)。母は二人に「どうぞ教室に入って見学なさってください」と声を掛けました。生徒の父兄が参観に来られたと思ったとか。

それから数か月後、お見合いの話があって、母はサラリーマンで大阪に行けるということで結婚を決めたのではないかと思います。デートは金沢の兼六園だったとか。母はお姑さんに、「色のもっと白い人が良かった」と言われたそうです。先生を辞めたら白くなるのかと思ってたのにいつまでたっても色黒と思われたらしいが、こればっかりは生まれつきだから仕方がないと母は思ったそうです。昭和17(1942)年の12月6日に結婚しました。1年前の昭和16(1941)年12月8日が真珠湾攻撃の日ですから、戦争中ということです。(つづく)

◎最近、両親のアルバム類を処分してしまって手元に残っているものがほとんどなくなりました。下の写真は、着物姿の母と生徒さん達。

下の写真では右端の立っている洋服姿が母です。靴ではなくて下駄ですね。

下の写真は父の「学生証」。中に挟んであった自筆のメモは大学の授業の時間割。

昭和16年4月から学生になっていますが、結婚したのはその年の12月。

母も言っていましたが、結婚した時はまだ夜学に通う学生でした。

日付は母が書いたもの。この時、父26歳、母21歳でした。