「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」(最終章1)


1月23日にブログを書いて、もう2か月以上。そろそろ最終章をまとめて、この本を読んでほしい人に回そうと思っています。読み始めて半年近くも引きづっているのは初めてです。
私用メモの続きですが、なかなか手が付けられなかったのは、日本の現状のそもそものところを知ってしまって、いよいよどうしようもないと気が滅入ってしまいました。もう余りに年月が経ち過ぎて・・・現状を変えたくない人たち、現状で甘い汁を吸っている人たちが日米ともに代替わりして、3代目くらいにもなっているし・・・(内田樹先生が指摘しています)とか、言い訳ばっかり出てきて、なかなか取り掛かれません。が、次の本が読めなくなるし、先に進めなくなるのも困ります。先々週の土曜日、Uさんに初めてこの本の話ができました。それに翁長県知事の菅官房長官への反論にも勇気づけられました。

孫崎享氏の「戦後史の正体」では、昭和天皇の沖縄メッセージが、ショッキングでしたが、この矢部宏冶氏の「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」では、その上を行く、昭和天皇の「ダレスへのメッセージ」があります。
沖縄がなぜサンフランシスコ講和条約で切り離されたのか、戦後70年の今もなぜ治外法権の米軍基地が沖縄の意思に反してあり続けるのか、最終章のパート5はそのことについてです。
右の[パート5]の写真は、2014年8月の辺野古の海です。「海上保安庁の巡視船やボートの警戒する中すすめられる新基地建設作業」と説明されています。
「日本政府は今、世界でも有数の自国の美しい海岸に、自分たちの税金で巨大な外国軍事基地を建設しようとしている」」。 何故、どうして…最後の謎の答えは、「歴史的経緯の中で、日本人自身が米軍の駐留を希望したから」「そこには昭和天皇の意向が大きく影響していたから」。

◎2つの「メッセージ」の前に、日米安保条約の存在による利益共同体である安保ムラの掟について:
安保村の掟・その1 重要な文書は、全て最初は英語で書かれている」:(敗戦直後、マニラのマッカーサーから軍師が持ち帰った「降伏文書」、陸海軍への降伏・武装解除についての指示文書である「一般命令第1号」、ミズーリ号での降伏文書へのサインと同時に発表するよう指示された声明文である「天皇の布告文」)
その2 怖いのは原爆よりも共産主義」:降伏のきっかけは8月6日の広島原爆投下より、8月9日のソ連の参戦
その3 沖縄は固有の領土ではない」:7月、日本政府内で決定されていた和平交渉の具体的条件:「最悪の場合は固有領土が残ればよし」「沖縄、小笠原島樺太を捨て、千島は南半分が残ればよい」。

昭和天皇の「沖縄メッセージ」(1947,9,19):1979年「世界」4月号に新藤栄一(当時筑波大助教授)がアメリカ公文書の中から発見・発表
マッカーサーの政治顧問ウィリアム・シーボルト天皇の側近グループの主要メンバーの寺崎英成が口頭で伝えた「政策提案」。

内容 (1)天皇が米軍に対して沖縄を半永久的に占領を頼む
  (2)米軍事占領は「日本に主権を残したままでの長期リース(25〜50年)と言うフィクションに基づくべきと考える

◎4年後の1951年のサンフランシスコ講和条約・第三条のトリック『潜在主権』が成立するのは:
(1)アメリカが沖縄を信託統治領にすることに日本は同意する。
(2)実際に信託統治を開始するまでの間、米軍がすべての権力を独占的に握る。
『潜在主権』(過渡的なものが半永久的なものになる)が成立すのは、日本自ら(=天皇と支配層が)同意したから。

▼沖縄をめぐるアメリカ国内の対立(軍部VS国務省
A)第二次大戦後の米軍の基本構想=「西太平洋を完全にアメリカの支配下に置く
 沖縄と戦前の日本の委任統治領だった南洋諸島(現マーシャル諸島ミクロネシア連邦北マリアナ諸島パラオ)を、国連の信託統治制度の中の「戦略地区」として事実上の軍事支配下に置くつもり。
   信託統治」=国連総会の管轄下で定期的報告や査察の義務を負う。   「戦略地区」=国連安保理の管轄下でソ連の了承を得て一度統治を始めれば後は拒否権行使で軍事基地化できる。
B)国務省:1946年6月、沖縄を「非軍事化(米軍基地を無くす)した上で「日本に返還すべき」と主張。
  (1)アメリカは帝国主義という批判を受ける。
  (2)領土の拡大は、アメリカの道徳的地位と政治的リーダーシップを大きく損なう。  <実際、この5年後、インドはアメリカの沖縄支配を「植民地主義」と非難し、サンフランシスコ講和会議への出席拒否。>
 ☆1946年11月の文書でも「沖縄を非軍事化した上で日本に返還」を主張=『太平洋憲章の理念』 ☆アメリカ世論も軍部による南洋諸島の戦略的信託統治構想を「偽装された領土の併合」「国連におけるアメリカの道徳的地位を失う」と批判。
▽この対立は1947年8月まで続く、ところが、9月になって19日、絶妙のタイミングで天皇のメッセージマッカーサーに届く。
▲「長期のリース」を日本側から提案。「そのような占領方法は、アメリカが琉球諸島に対して永続的な野心を持たないことを日本国民に納得させるだろう」と述べていた。
(これを機に、沖縄返還構想は勢いを失い、代わりに『講和条約第三条のトリック』がダレスによって書かれる。)

もう一つの「天皇メッセージ」<1950,6,26(口頭)⇒8,19(正式文書化)>:発見者は秦郁彦当時拓殖大学教授(1932・S7〜)「裕仁天皇の5つの決断」(1984
☆来日中のダレスに天皇の側近の松平康昌からパケナム(ニューズウィーク東京支局長兼CIA協力者)を通してダレス(口頭にて)。その後文書化されて再度ダレスへ。

☆前回の「沖縄メッセージ」は日本政府の頭越しにマッカーサーGHQ)だったが、今回は、日本政府とGHQも素通りして国務省(ダレス)へ直接。
注目点は6月26日の口頭伝達後の7月29日の吉田茂の国会答弁「私は軍事基地は貸したくないと考えております」を昭和天皇が「あのような誤った」と批判していること。
☆「米軍の基地継続使用問題」についての日本側からの自発的申し出=米軍駐留を日本側から申し出る。=ダレス<今回の訪問の最も重要な成果
◆国連の「信託統治制度」を使って過渡的な状況での独裁を実現(『ダレスのトリック』:
サンフランシスコ講和条約第3条=「日本は沖縄や小笠原などを信託統治制度のもとに置くという提案をアメリカがした場合同意する。」しかし、「そうした提案が行われるまでは、アメリカは行政・立法・司法上のすべての権力を行使する権利を持つ」:信託統治までの短期的・過渡的と思われていたのに1972年の沖縄返還までアメリカは一度もその提案を行わず戦後も沖縄を半永久的に軍事支配し続けた。
国連憲章第107条:「敵国に対する戦後処理」(=講和条約)は国連憲章全ての条項の適用から除外される(国際法に違反しない)<「民族自決の原則」「人権の尊重」で訴えても適用されない。>

★翌年1951年2月。ダレスが作った日米安保条約前文:「日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する」「 日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」。 第一条平和条約及びこの条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する」。
☆旧安保条約全文はコチラ「山崎行太郎の毒蛇山荘日記」で:http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20150409 
山崎氏は丁度天皇皇后両陛下がパラオに向かわれた日に旧安保と天皇の関係と今上天皇の慰霊の行脚について書いています(このあと条約全文):

昭和天皇は「独立」より「日米安保」を選択した。言い換えれば、「日米安保条約」が、戦後の日本の「国体」となったのである。昭和天皇が選択した「旧安保条約」には、「米軍駐留延長」と「沖縄切り捨て」が含まれていた。それが、吉田茂を逡巡させたものだったが、しかし、それを超憲法的立場に立ちながら、敢えて昭和天皇が選択した政治的リアリズムだった。現在まで続く沖縄問題は、ここから始まっている。それ故に、昭和天皇の「沖縄への思い」は、複雑で痛切なのである。

☆なぜ昭和天皇はそんな提案をしたのか? ここでも共産主義の恐怖
 ダレスに口頭で天皇のメッセージが伝えられた1950年6月26日の前日、6月25日、朝鮮戦争勃発。ダレス文書に、天皇の側近が「朝鮮でアメリカが負けたら我々は全員死刑でしょうなぁ」と首筋をたたいて語ったことが残っている(P261)。アメリカ軍の駐留を望んだのは、共産主義革命が起これば死刑になることを恐れた天皇と支配層であったと言える。
1950.4.7 国務省の考えでは、日本国内に外国軍基地を維持することが、憲法九条と両立するか、前文の精神に違反するという矛盾となり、憲法問題を深刻化させる。(事実、日本国憲法の権威を傷つけ、法治国家崩壊の現状の原因となっている。▼決定づけたのは1959年の砂川判決。田中耕太郎最高裁長官(在任1950〜60)が、在日米軍の存在が憲法違反かどうか巡る砂川裁判で、アメリカ政府の指示と誘導で(2008年アメリカ公文書で明らかに・P45)"日米安保条約のような高度な政治的問題については、憲法判断をしないでよい”という判決を出した。これによって安保条約とそれに関する取り決めが、憲法を含む日本の国内法全体に優越する構造が法的に確定した。

★「日本本土への米軍駐留」をめぐる昭和天皇マッカーサーの対立は、昭和天皇の勝利に終わる。冷戦の始まりによってアメリカの世界戦略が変わりアメリカの対日軍事政策も従来のマッカーサー路線(本土非武装・沖縄軍事要塞化)から、冷戦対応型の新しい路線(本土にも沖縄にも巨大な米軍基地を置き、日本全体を反共の防波堤)に方向転換。日本の昭和天皇を中心とする支配層も、マッカーサーGHQ)からダレス(アメリ国務省)へと軸足を移す。
昭和天皇がダレスへ秘密メッセージを送った翌年(1951年)の4月、マッカーサートルーマン大統領から解任。
●ここに「すべての軍事力と交戦権を放棄した憲法9条2項」と、「人類史上最大の攻撃力を持つ米軍の駐留」が共存という矛盾を抱えて、「米軍が天皇制を守る」という非常に歪んだ形で、戦後日本(安保村)の国家権力構造が完成。
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◎最後と「あとがき」で、矢部宏冶氏は、『じゃ、どうすればいいのか』について書いています。近いうちにまとめて終わりにしたいと思います。
最近、アチコチのブログを読んでいると、「アメリカに『隷従』する日本」という表現が使われています。今までなら『従属』と書かれるケースにこの『隷従』が使われるようになっています。これは、現政権、安倍首相の政治が、国民の多数の民意や憲法で守られてきた諸権利を無視、破壊してまで、アメリカの利益優先という姿勢が明確になってきたことに呼応する表現であり、もはや、この言葉にピッタリという現状を表しているようです。

記事の中で引用した山崎行太郎氏は保守の方ですが、憲法を蔑ろにしたり日米同盟最優先の安倍政権には強く反対しておられます。天皇天皇制に、右と左で考え方の違いがあっても、現憲法に忠実な今上天皇の在り方は、考え方の違いを超えて認められるのではないでしょうか。翁長氏が沖縄では”イデオロギーよりアイデンティティー”と仰っていますが、本土でも、多くの政治家がイデオロギーよりアイデンティティーと自覚する日が早く来てほしいと思います。
このブログを始めた頃、右と左で別の日本があると嘆いていた私ですが、やっと、最近、右でも左でもアメリカ隷従ではなくて自立した日本へという道筋が見えてきたような気がします。とは言え、統一地方選挙の結果には、ガッカリ。程遠い・・・だからと言って、日本がこのままでいいとはとても思えない。ここで、古賀茂明さんが紹介したガンジーの言葉:「あなたのすることのほとんどは無意味ではあるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。

(写真は庭で咲く赤いチューリップと、箕面の谷あいの斜面に自生するシャガの花。両親の庭の木陰で咲いていました)