「安吾の戦争観」、ついでに「歴史教科書」と「独裁の危機」(「文春7月号」)

少し前に下書きした記事、アップの前に内田樹氏のツィート欄からです:

内田樹さんがリツイート


coco ‏@cocobluesky · 9時間9時間前
川内原発1号機 11日午前、再稼働へ(MBC南日本放送http://bit.ly/1MkIwbG

菅官房長菅「原子力規制委員会において安全性が確認された原発は再稼動を進める」田中俊一委員長:「安全だとは私は申し上げません!」



反安倍あざらし ‏@MetalGodTokyo · 13時間13時間前
【仏罰】
公明党、支持大幅減で共産党に水をあけられ、壊滅目前。




金子勝 ‏@masaru_kaneko · 3時間3時間前
NHK世論調査政党支持率では、自民党自体は微減。極右政党に変質していることがまだ十分に浸透していない。公明党の支持率は4.2%から3%へと急速に低下。「平和の党」から「戦争の党」への変質が効いている。安保法案を通せば、激減するだろう。http://goo.gl/MpdOx4

◆「shuueiのメモ」さんから、「長期停止原発が複数再稼働へ、世界的な未知圏−川内原発先陣」(http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20150811/1439234672
◎さて、隣の父が読んだ後、月遅れの「文藝春秋」7月号が手元に。9月号が出る頃ですので2か月遅れですが。
目次を開いて目をひかれるのは、佐藤優「中国、韓国、ロシアの『歴史教科書』日本はいかに描かれているか」。
”日本が如何に…”というより、それぞれの教科書の特徴を要約すると、日本は年号の羅列で、ロシア・中国は、徹底したリアリズムで普遍性を持った物語のある歴史を教え、韓国は、国際的に通用しない内向きのテロリスト礼賛の歴史というもの。日本の歴史は、受験勉強用の単なる事実や用語の羅列、受験が終われば忘れ去られる。日本のエリート養成が後進国型で旧時代の教育。早く暗記中心の詰込み型から脱して、物語性を重視した分量の多い教科書を造って数年かけて学ぶ必要がある、とのこと。
ところが、残念ながら未だに日本の場合、特に近現代については、共通した物語を持てない悲しさがありますね。

◎もう一つは「緊急特集 橋下徹とは結局何者だったのか」で、7人の方が書いています。トップは評論家の中野剛志氏。タイトルは「独裁の危機は去っていない」。住民投票後の記者会見の発言を取り上げておられます。
僕が提案した大阪都構想、市民の皆様に受け入れられなかったという事で、やっぱり間違ってたということになるのでしょうね。」この言葉に、私も大いに引っかかりました。中野氏も、投票結果の「勝敗」と「正否」を同一視していると批判されています。「多数派が判断を間違う事もあるし、「正否」を明らかにするには議論を尽くす以外にない。橋下氏の発言の裏には「住民投票で勝負はついたのだから、黙れ」と少数派との議論を否定する、『自由なき民主政治=独裁』が隠れている。」
◎もう一つ、引っかかっていた発言も取り上げておられます。「昨日の街頭演説では、完全に戦(いくさ)をしかけて『叩きつぶす』と言って、こちらが叩きつぶされたわけですから。本当にこの民主主義っていうのはすごいなと。」、(このあと「本当なら首を取られても仕方がないのに、生きている」とも。選挙が戦国時代の戦?)
中野氏はこの発言にも独裁者を感じて、こう書いておられます:

要するに彼は、住民投票に勝利することで、反対派を『叩きつぶす』、つまり「弾圧」するつもりでいたのだ。「弾圧」や「独裁」といった表現が誇張だと感じたとしたら、それは民主政治に対する無知によるものである。独裁者による弾圧とは、民主政治においては、物理的な強制力の行使ではない。もっと巧妙に行われるのだ
橋下市長は、都構想に反対する藤井聡京大教授を、記者会見やツィッターで連日罵倒したり、藤井氏を出演させたテレビ局に抗議文書を発出したりと、「あらゆる種類の嫌がらせや迫害」を行った。これらは、もちろん合法的で、物理的な強制力を伴うものでもないが、これにより、たいていの者が「譲歩し、屈服し、沈黙に陥ってしまう。」つまり、空気を支配することで言論を弾圧するのだ。
・・・・・更に恐るべきことに、橋下市長による言論弾圧は、言論、マスメディアあるいは国政の場においても、さして問題視されずに放置されていた。それどころか橋下氏の政界引退を残念がる田原総一朗氏や、記者会見の言動を「さわやか」だなどとコメントとする茂木健一郎氏など、よほど独裁が好きで、自由の否定を爽やかに感じるセンスがわからない本来、憲法というものは、いわば橋下市長のような政治家が現われないようにするための制度なのだ。

◎それなのに、橋下タイプの独裁者が国のトップまで行く今の日本は憲法が働いていないという事ですね〜
●さて本題です。今日紹介したいと思ったのは文藝春秋誌の名物巻頭言のエッセイのトップ立花隆氏の「安吾の戦争観」です。
坂口安吾が、最近、再び若い人の間で読まれだしている」そうです。「安吾著作権切れになったこともあるが、その独特の語り口と話術の巧みさに品期の秘密があるのだろう」とも。坂口安吾は加藤典弘氏の「敗戦後論」で知った作家ですが、また出てきました。立花氏のエッセイは、「え、これでいいの? これではいくらなんでも……と思った。何が変と言って、安保法制の国会審議のやり方だ。」で始まっているのですが、そこは省略して、坂口安吾です。移してみます。


安吾の戦争観               立花 隆 (評論家)


<前略>


 安吾堕落論、人間論、社会論で知られるが、意外に戦争論、安全保障論が面白い。安全保障論でわかりやすいのは『もう軍備はいらない』の次のくだりだ。
「人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争は致しません、というこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。四等国が超Aクラスの軍備をととのえて目の玉だけギョロつかせて威張り返って睨めまわしているのも滑稽だが、四等国が四等国なみの軍備をととのえそれで一人前の体裁がととのったつもりでいるのも同じように滑稽である」 


 この時期、日本には憲法改正論、再軍備論が生まれていたが、安吾そんなものはまとめていらないと言っている。『もう軍備はいらない』が発表されたのは、1952年文學界」十月号だから、講和条約が発効してまもなくの頃である。歴史的事実としては、講和条約調印とともに、日米安保条約が別室で結ばれ、日本は以後冷戦体制下、アメリカの政治的軍事的一翼を担うことになる。
 安吾はこんな言い方もしている。
「自分が国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかん攻め込んでくる凶悪犯人が居るような言い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさっそくドスをのむ奴の云いぐさだ」


 日本の再軍備論の場合、その基本的論拠はここに「ヨタモンのチンピラどもの言いぐさ」とされていることにほとんど一致している安倍首相の場合、さらにやっかいなのは、おじいちゃんが東条内閣閣僚で開戦詔書にサインもした人物で、戦後、A級戦犯の被疑者とされ、無罪釈放となった後で、総理大臣になって再軍備もとなえた人物だから、まさしくここにいう「ブタ箱から出てきた足でさっそくドスをのむ奴」という描写にぴったりの人物という事になる。岸元首相の孫という、これまで名門家系の出という安倍首相の売りのポイントとされてきたことが、にわかに逆の評価も受けかねない時代になったということだ。



 戦争というものの現実について、安吾並みのリアルな認識が持てない者には、政治家であろうと誰であろうと安保法制や戦争などについてエラそうな口をきいてもらいたくない、と私も思う
「戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである」
 私は安倍首相が戦争をしたがっている人とは全く思わないが、安吾ほどに、戦争に対する強い強い怒りを持っている人とも思えないのはなぜなのだろうか。


 坂口安吾の文章に今の若い人がショックを受けるのはそこに、戦争中のあっちにもこっちにも死体がゴロゴロころがっていた日常風景の中で醸成された、ある種のニヒリズムが今も色濃くただよっているからだろう
「原子バクダンの被害写真が流行しているので、私も買った。ひどいと思った。/しかし、戦争なら、どんな武器を用いたって仕様がないじゃないか、なぜヒロシマナガサキだけがいけないのだ。いけないのは、原子バクダンじゃなくて、戦争なんだ。/東京だってヒドかったね。ショーバイ柄もあったが、空襲のたび、まだ燃えている焼跡を歩きまわるのがあのころの私の日課のようなものであった。公園の大きな空壕の中や、劇場や地下室の中で、何千という人たちが一かたまり折り重なって私の目の前でまだいぶ(燻)っていたね
「オレの手に原子バクダンがあれば、むろん敵の頭の上でそれをいきなりバクハツさせてやったろう。何千という一かたまりの焼死体や、コンクリのカケラと一しょにねじきれた血まみれのクビが路にころがっているのを見ても、あのころは全然不感症だった。美も醜もない。死臭すら存在しない。屍体のかたわらで平然とベントーも食えたであろう」


 このような血まみれの実体験を背景に安吾が喉の奥から絞り出して来る奔流のような言葉を前にすると、安倍首相とその官僚的スピーチライター達が繰り出してくるもっともらしい言葉の数々は、いかにもウソっぽく聞こえるし余りにも真剣みにかけた議論としか聞こえない目の前で燻る屍体を見たことがある人が言葉に与えれる重みははるかに重い