「ぼくら昭和ヒトケタ世代」(大橋巨泉)

(今日は、『安倍政権が学ぶ「ナチスの手口」=「緊急事態条項」』に次いで、2つ目です)

大橋巨泉さんが、参院選が終わった2日後に亡くなっておられました。永六輔さんが亡くなられて5日後だったそうです。
「最後の遺言」が本当の遺言になってしまいました。(2016-07-03「大橋巨泉さん”最後の遺言”「安倍晋三の野望は恐ろしい。…野党に投票してくださいhttp://d.hatena.ne.jp/cangael/20160703/1467504789
内田樹氏のツィート欄に、巨泉さんのインタビュー記事が紹介されていました。追悼の意味を込めてコピーさせていただきます。記事の中にありますように、巨泉さんたちは昭和9年、一ケタ世代の最後で、私の10歳先輩です。菅原文太、愛川川欣也さんたちも。戦中、戦後の変わり目を一番感受性豊かな頃に体験された世代です。「試験を受けに行った校舎の壁に人の形のシミのようなものがあった…それを見ると、3中へは行けなかった」、「僕たちは、銃を握ったことはないが、疎開先でつらい目にあった。……安倍首相に賛成できる人間ていないんじゃないか」と書いておられます。(新聞記事のコピー、読みにくければ、内田氏の20日のツィート欄から直にご覧になってください)

内田樹さんがリツイート

かばさわ洋平 ‏@ykabasawa · 12時間12時間前

日本はアメリカの属州か

大橋巨泉さんは本質を鋭く指摘されていました。

◎「世相を斬る あいば達也」さんのブログでも大橋巨泉さんに触れておられます。
コチラでは、旧民主党から立候補してトップ当選を果たすも半年後には議員を辞めるに至る経緯を載せておられますので、その部分をコピーさせていただきます:(引用元:(http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/f9d239ab413ca2fb909fc83079486fc5)(写真はネットで、巨泉さんが愛川欣也さんと、ちょうど都知事選の鳥越候補の名前の前で写っている写真がありましたので、それをお借りしました)


 先ずは、テレビ司会者界の大物中の大物、大橋巨泉氏が亡くなられた。ここに、深く哀悼の意を表し、安らかに御永眠されますようお祈りいたします。晩年は、たび重なる癌細胞との闘いだったと記憶するが、執拗な癌細胞の攻撃に、徹底的に抵抗した姿は、流石、反権力・反既成概念と云うアンチテーゼな生き方の締め括りに相応しい。筆者の知る限り、リベラル性と保守性を、ベスト・ミックスで所有していた戦中派の一人だったと理解している。時に自由人であり、時にエスタブリッシュメントであった人物は、今後、それ程出てくるとは思えないが、反安倍の論客が一人消えたことは、残念である。


 2001年には、旧民主党から参議院比例区に立候補、トップ当選を果たした。しかし、≪ アメリカ同時多発テロ事件を非難する国会決議には、「アメリカを支持する」との文言を理由に民主党でただ1人反対。また、インド洋への自衛隊派遣に伴う事後承認にも反対するなど、短期間でいわゆる「造反」を連発した。また、8月6日の民主党両院総会では、巨泉は鳩山に「社会主義インターナショナルに加盟しセンターレフト(中道左派)の党としての性格を鮮明にせよ」と迫ったが、鳩山から「民主党のコンセンサスではない」と却下されている。≫ ≪ こうした党との意見の違いによりわずか6か月で辞職辞職の弁では「日本の民主党がこれほどまでに反民主的な集団とは思わなかった」と述べた。辞職会見の時には、旧社会党系の民主党議員や社会民主党の女性議員が「巨泉さん辞めないでください!」と辞職する巨泉を止めようと説得する場面があった(この時は、福島瑞穂辻元清美などの議員もいた)。この時巨泉は「僕は辞めると言ってはいないんです。辞めたのです」と説得する女性議員に向かって述べた。≫ 注:≪≫内は(Wikipedia抜粋)