NHKスペシャル「沖縄 空白の1年〜基地の島”はこうして生まれた」と「むのたけじさんと吉田満」(山崎雅弘氏)

◎「晴天とら日記」さんの21日は、<【NHKスペシャル:沖縄 空白の1年“基地の島”はこうして生まれた】「米軍による沖縄の占領に日本人は反対しない.沖縄人は日本人ではないのだから」 by・マッカーサー>です。この番組は私も見ましたが、大変ショックを受けました。それは、タイトルにも書かれている言葉。アメリカが沖縄を占領状態にしてほしいままに基地に使用できたのは、見透かされていたからですね、日本人は反対しない。ず〜と沖縄を差別してきたじゃないかと。

■NHKスペシャル「沖縄 空白の1年〜“基地の島”はこうして生まれた〜」 【2016.08.20】
8月20日(土) 午後 9時00分〜9時49分


1945年8月15日、本土の人々が太平洋戦争の終わりを告げる玉音放送を聞き、悲嘆に暮れる中、沖縄では、人口のおよそ9割が「収容所」に入れられるなど、全く別の「戦後」がはじまろうとしていた。


今回NHKは、アメリカ軍の占領直後―――「1945年6月から1946年にかけて」の映像や、米軍の機密資料、未公開の沖縄の指導者たちの日記等を入手した。資料を詳細にみていくと、この時期、アメリカの占領政策は揺れており、まさに沖縄が「これからどうなるか」が決められていく期間でもあったことが分かってきた。沖縄はこの時期、アメリカでもなく日本でもない、“空白の状態”に置かれながら、次第に「基地の島」へと変貌させられていったのだ。戦後、本土が平和と繁栄を謳歌する一方、その代償として重い負担を背負った沖縄。「空白の1年」を通して、沖縄の戦後の歩みと今を考える。(番組HP:http://www6.nhk.or.jp/special/

■沖縄 空白の1年 1945−1946 〜基地の島はこうして生まれた〜/NHKスペシャル (書き起こし) (=抜粋= 全文はここでhttp://tvmatome.net/archives/4820
(トップの写真と引用元の「晴天とら日記」さんはコチラ:http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/52283958.html
◎101歳のむのたけじさんが…また一人…

山崎 雅弘 ‏@mas__yamazaki · 18時間18時間前

むのたけじさん死去 101歳のジャーナリスト(朝日)http://bit.ly/2bcKzQJ朝日新聞記者時代に終戦を迎え、『負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける』と終戦の日に退社また一人、経験者として証言を行い、警鐘を鳴らす人が日本を去ってしまった。

むのたけじさん死去 101歳のジャーナリスト


 「戦争絶滅」を訴え続けたジャーナリストむのたけじ(本名・武野武治)さんが21日、老衰のため、さいたま市の次男宅で死去した。101歳だった。葬儀は近親者のみで行い、後日、「しのぶ会」を開く。

むのさん、反戦への思い貫く 憲法改正派にも耳傾ける(http://www.asahi.com/articles/ASJ8P4SJLJ8PUTIL01J.html
落合恵子さんら「思い受け継ぐ」 むのたけじさん死去(http://www.asahi.com/articles/ASJ8P4SVTJ8PUTIL01N.html


 朝日新聞記者時代に終戦を迎え、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社した。ふるさとの秋田県に戻り、横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。1978年に780号で休刊してからは、著作や講演活動を通じて平和への信念を貫き通した。


 100歳になった昨年は戦後70年で「歴史の引き継ぎのタイムリミット」といい、講演で各地を飛び回った。今年5月3日に東京都江東区東京臨海広域防災公園で行われた「憲法集会」でのスピーチで「日本国憲法があったおかげで戦後71年間、日本人は1人も戦死せず、相手も戦死させなかった」と語ったのが、公の場での最後の訴えとなった。


 2002年に胃がんの手術をし、06年に肺がんで放射線治療を受けたが、ほぼ完治。90歳を過ぎても自転車に乗り、「80歳より90歳のほうがいい仕事ができるようになった」と話した。


 「戦争いらぬやれぬ世へ」(評論社)や「99歳一日一言」(岩波新書)、「日本で100年、生きてきて」(朝日新書)などを著し、「週刊金曜日」では故野坂昭如さんのあとのコラムを担当していた。(木瀬公二)


山崎 雅弘 ‏@mas__yamazaki · 18時間18時間前


▼今回の旅のお供は、吉田満『戦中派の死生観』。東大在学中に学徒出陣で海軍将校となり、戦艦大和の乗員として沖縄特攻に参加して九死に一生を得たのち、『戦艦大和ノ最期』などの著作を残された。戦争経験者として、率直に問題と向き合っておられた。


吉田満『戦中派の死生観』で書かれる「アイデンティティー」とは、私が『転換期に生きるきみたちへ』(晶文社)に寄稿した「国を愛するってなんだろう?」に重なる部分もある。呉の大和ミュージアムで、若き日の吉田氏の写真を見つけ少し戸惑った。


吉田満『戦中派の死生観』には、吉田氏と同様の境遇で戦争を経験した若い軍人の遺書や日記などが多く引用されている。戦艦大和の特攻出撃に際し、臼淵という士官が語った言葉が胸に刺さる。彼が期待をかけた「あとの世代」には、我々も含まれている。



敗戦と自らの死を目前にした若い軍人が「負けて目覚めることが最上の道だ」「敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ」との覚悟を胸に抱き、敗戦後の日本人が「目覚めてくれること」を信じて死んだ我々は本当に目覚めたか?


▼こうした重い言葉を呑み込んだ上で、首相や閣僚が靖国神社参拝に際して口にする「英霊への感謝」という言葉をそれと対比させると、後者のあまりの軽さと薄っぺらさが際立つ。一度破滅しないと、この国は生まれ変われないという絶望と向き合いながら死んだ軍人にかけるべき言葉は、そんな空疎な賛辞か。


吉田満『戦中派の死生観』を読んでいて、感情の揺らぎを抑えられなくなったのは当時の学徒兵らが「文字」や「本」に抱いた渇望についてのくだりだった。…夢の中で本が出てくる。手を伸ばしても届かない。無味乾燥な図書目録を美酒のように味わう


江田島の旧海軍兵学校は、今も海上自衛隊第一術科学校として使われ、大勢の若い自衛官が訓練と勉学に励んでいる。内部見学の途中でグラウンドでスポーツしている隊員を見て、戦局が悪化する前の軍の若者も同じように快活だったのだろうかと想像した。


江田島の旧海軍兵学校内にある「教育参考館」という建物は、幹部候補生の教育施設で、勝海舟の頃からの日本海軍に関する貴重な物品や書などが多数展示してある「日本海軍博物館」的な施設だが、特攻で死んだ海軍軍人の名前が何枚もの大きな大理石に刻んであるのを見て、事実の重さを再認識させられた。


▼特攻で出撃した軍人はみな、国の指導者が命ずることには間違いがないと信じて、あるいは「信じたこと」にして、死地へと向かった。しかし実際には、国家指導者も間違った判断をしばしば下す。戦前戦中の軍指導者や現在の安倍政権の閣僚は、命令に従う人間の命を左右する責任の重さを理解しているのか。

(写真はワイヤープランツの花。今年も、ひっそりと目立たない薄緑の小さな花が咲いています)