金曜デモと”淡路島出身の樋口季一郎”

◎12月、師走最初の金曜日、いつものように「特別な1日」さんのブログで官邸前再稼働反対の抗議デモの様子を。今回のタイトルは「ポピュリズムを煽るもの:『トランプの正体』と加藤陽子『戦争まで』、それに『1202再稼働反対!首相官邸前抗議』+『キューバ料理の夕べ(笑)』」です。
タイトルにある加藤陽子さんの『戦争まで』。高校生と一緒に戦争に至る過程をたどりながら、どこかで引き返せなかったかを探る・・・あれ、私も読んだ記憶があるけど、タイトルが……と思っていたら、出てきました。私が読んだのは次に紹介されている『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』でした。単行本で読んでブログにも記録しているはず、今年、文庫本になったのですね。
戦後70年以上経っても、過去をきちんと整理できていないと同じ事を繰り返しますね。取り返しのつかないことをやってしまってからでも引き返せない原発。本当に日本人って…と思います。

                                                          
と、言うことで、今週も官邸前抗議へ。
今日は寒さも和らいで、マフラーもコートも薄手のもので出かけることができました。今日の参加者は主催者発表で800人。

★全文はぜひこちらのブログを訪ねて:http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20161202/1480689180
◎昨日は、我が家はスポンサー付きのお茶会、といっても日が短くなったので軽いホットサンドメニューで12時集合。今回のスポンサーであるカナダのSさんが日本におられたころは、山口のWさん、千葉のFさんにお琴の先生のNさんとにぎやかでしたが、今は箕面在住3人になってしまいました。12時を過ぎて20分にもなるのにUさんが来ない。なんと家の前で母とばったりで、二人でおしゃべりしてたんだとか。途中母も入ってきて、4人でしばらく話したりもしました。
実は、11月の21日(月)に一度Uさんに電話した時は、「翌日淡路島へ行くので、その週の木曜か金曜」と言われ、翌日から私がひどい風邪で、それから以後数週間ヨーガも休み、やっと今週になって電話して決まったのが昨日でした。その間、Sさんも、瀬戸内海の島や愛媛、徳島の美術館巡りツアーに出かけられたりでした。
前日の1日に映画「この世界の片隅に」を見た映画館で、3日からスタートする映画「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」のチラシをもらってきましたのでお二人に渡しました。シンドラーのリストの英国版と私が言ったら、Sさんの淡路島のお話が始まりました。日本のシンドラー杉原千畝の二人目のお話です。

↑写真は南あわじ市の「若人の広場公園」の写真です。左の三角錐丹下健三設計の慰霊碑です。(引用元:https://www.facebook.com/RuoRennoGuangChangGongYuanjiaCheng
★淡路島出身で樋口季一郎(1888〜1970)という軍人さんがいました。戦時中、杉原千畝と同じように、ユダヤ人二万人(実は5000人、or 1000〜2000人という説も)を助けた人だそうです。ロシア語が堪能で、満州ハルビン関東軍特務機関長だった時のことです。


◎「1938年3月。杉原がビザを書く2年前のことソ連満州国の国境付近にあるオトポール駅では、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。彼らのほとんどが着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出し、旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の人もいて悲惨な状況でした。当時満州国の外交は日本のそれと同じでドイツの国策を無視できず困惑し、その結果の入国拒否でした。

日本政府は日独防共協定を結んでいましたがドイツはこれを拡大解釈し、ユダヤ人もその(防共の)対象としたのです。ですから下手なことをすればドイツを刺激し外交上の問題となることは明らかでした。しかし樋口はこれを政治上の問題ではなく人道上の問題ととらえ満州国外交部の下村信貞と協議し必要な処置をとらせたのです。
さらに当時南満州鉄道の総裁だった松岡洋右は樋口に相談されると直ちに救援列車の出動を命じました。オトポールに近い南満州鉄道駅である満州里(マンチューリ)はハルピンから900Kmの彼方にあり、列車の本数は少く特別な臨時列車が必要でした。

3月12日、ハルピンに最初の列車が到着。ハルピン在住のユダヤ人も出迎えて同胞の救出をことのほか喜んだといわれています。こうして救われたユダヤ難民は上海に、あるいはアメリカへと旅立って行ったのです。」


◎ドイツからのお咎めに樋口が関東軍司令官に送った手紙の内容は:「私は、私の行為は決して間違っていないと信じます。法治国家として当然のことをしたまでです。満州国は日本の属国ではないし、ましてドイツの属国でもありません。たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいきません」というものでした。また関東軍司令部に出頭を命じられた樋口は参謀総長だった東條英機に会い「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることが正しいと思われますか?」と述べ、事件はうやむやに。「後に樋口は東條の太平洋戦争開戦責任についてはこれを弾劾するものの、この事件の処理については敬意を表すると述懐しています。」
◎このエピソードを紹介している「正義の人(杉原千畝樋口季一郎) その2」によりますと:(写真もここからお借りしました)

樋口には後日談があります。
1943年北方軍司令官として札幌にいた樋口は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還させるべく大本営に談判したことでも知られます。
1945年8月18日。無条件降伏の3日後。北海道占領を目的としてソ連軍が突然千島列島の占守島を攻撃してきました。その兵力約8000。同時にスターリンは千島列島と北海道北半分をソ連領とすることをアメリカに要求。
司令官樋口はすすめていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じたのです。8月22日まで続いた戦いの結果、ソ連は3000人もの死傷者を出して敗退。1日で占守島を占領する予定でしたが思わぬ齟齬をきたしたのです。もしソ連軍が計画どおり千島列島から北海道に上陸したら・・・・・あるいは日本もドイツのように分断されたかもしれません。
 大損害を受けたソ連は樋口を戦犯として指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しましたしかしこれを聞いた世界ユダヤ人協会がアメリカ国防総省に働きかけ、アメリカはソ連の引渡し要求を拒否することになったのです

◎助けられたユダヤ人が恩返しをしたということですが、樋口さんがこれを知ったのは1950年のアインシュタイン来日時だったそうです。淡路島の丹下健三の慰霊碑を訪ねたUさんにこの話を聞いた私たち二人、知らなかった〜とびっくり。どうしてもっと知らされないの? 
杉原千畝さんは外交官、樋口季一郎さんは軍人。役人や軍人が上司・上官の命令や国家の方針に反して自由意思で判断して人道的行為を行うことは、あまり知られない方がよかったのかもしれません。あるいは、逆に、日本賛美、戦争賛美に利用したい人たちがいるかもしれません。個人としての在り方は学びたいこと大です。

◎今回、SPYBOYさんは、加藤陽子さんの本を取り上げて戦争についてこんなことを書いておられます:

▲余談ですが、バカは何でも他人のせいにしたがります。往々にしてネトウヨは殆どの問題はアメリカや中国、それに共産党反日のせい、バカサヨは何でもかんでも大企業とアメリカのせいにします。つまりバカな連中ほどは自分の意志や主体性がない、それに自分の責任とかプライドがないんです。まさに、愛国心は愚か者の最後の隠れ家、です。


▲政治家の問題もあるけれど、国民一人一人の考え方も大事だってこと。政治家だけで政治をやってるんじゃありません。昭和天皇だって開戦直前『対米宣戦布告をしなければ革命が起きる』とビビッてました。為政者も悪いが反米感情に燃え盛っていた国民も大バカだったんです。じゃあ、戦争は避けることができなかったのでしょうか。対米戦争絶対反対の井上成美海軍大将(当時は中将)は確か山本五十六にこう言っていたと思います。『たとえ革命が起きても、国中が戦争で焼野原になるより遥かにマシ

◎SPYBOYさんが言及されている井上茂美陸軍大将も、全体主義の戦時下にあって個人としての考えを持っていた人です。思いがけずも、素晴らしい個人・樋口季一郎発見?のお茶会になりましたが、日本人として大先輩にこういう立派な方がおられたことは本当にありがたいことだと思います。