ETV特集「日米安保を生んだ”冷戦”」つづき

昨日は高校野球の決勝戦、大差がついて沖縄の興南が優勝、東海大相模は残念でした。夏が終わります。

さて、安保のつづきです。相変わらずカットできずにダラダラと書き進めていくことに・・・いよいよ日本との講和と軍事基地化が推進されます。議論は全面講和か単独(多数)講和かに分かれます。

武田清子さんたち平和談話会は「講和問題についての平和問題談話会声明」を発表します。「日本人の希望は全面講和以外にない。講和後の保障は中立不可侵を願う。併せて国際連合への加入を欲する。いかなる国に対しても軍事基地を与えることは絶対反対する。」
1949年12月15日、朝日新聞の「講和をどう考える」と言う記事に当時の意識調査がある。全面講和=59%、単独講和=21%、単純には言えない=20%。安全保障を巡っては、永世中立=39%、国連加入=36%、地域的集団保障=7%、特定国との軍事協定または特定国による保障=8%。ところが、


1950年6月25日の朝、朝鮮戦争勃発。北が38度線を越えて南へ侵攻。
日本の外務省が見解「朝鮮の動乱とわれらの立場」(昭和25年8月19日)を発表:「共産主義は全世界にわたる民主主義の絶滅と侵略を目標にしているが『中立』や『不介入』などとという言葉はありえない。全面講和論は共産主義に利用される恐れがあるから、日本はアメリカとともに歩んでいくべきだ。」
朝鮮戦争勃発3ヵ月後の朝日新聞世論調査(1950年9月21〜24日)では、全面講和=21.4%、単独講和=45.6%、分からない=33.0%。アメリカ軍の基地保有については、賛成=29.9%、反対=37.5%、分からない=32.6%。朝鮮戦争を挟んで世論も一変する。
「平和問題談話会」にも反対意見、抗議、悪罵が届き始める。[全面講和」は非現実的、「中立不可侵」は空念仏にならないかという怖れも。



7月、25万人の米軍を中心とした国連軍が派遣され、日本の基地から米軍が出撃。
国務長官ダレスは「朝鮮戦争で日本人の危機意識が高まった今こそ日本の軍事基地化を勧める好機だ」と政府に提言。
1950年8月21日の「ケナン覚書」。これに国務省政策企画室長のジョージ・ケナンは反対、「米軍が日本に居続けることを条約で取り決めるのは間違い。それは将来にわたって日本との外交関係に影を落とす事になる。」「最善の解決策はソ連と外交的接触を保ちながら、われわれが日本の中立化と非軍事化に同意する代わりにソ連朝鮮戦争終結を同意させる事である。」
シャラー教授の解説では、「ソ連北朝鮮を撤兵させる一方、アメリカは日本の再武装要求を撤回する。そうすることで米影響下にあっても再武装化されず中国やソ連にとって脅威とならない中立日本が誕生する。ケナンはこれを実現可能と考えていた。しかし、ケナンはすでに国務省の主流ではなく、影響を失っていた」。

1950年10月、朝鮮戦争に中国人民義勇軍が参戦、北を支援するように。ついに戦場で中国とアメリカが争うことに。戦争は拡大の一途。
1951年1月、戦争のさ中、対日講和条約の交渉を開始。ダレスが再来日、吉田茂首相と会談。「もし日本が希望するならアメリカは日本とその周辺にアメリカ軍を維持する事を同情を持って考慮しましょう。」と言うダレスに、吉田首相は「講和条約の発効後、日本が非武装で自己防衛も出来ないまま軍事的真空の中に放置されることのないよう、この提案を受諾しようと言うのが日本国民の圧倒的な希望です。」


この時、「平和問題談話会」に変化が。会員の中に吉田首相の方針に賛同し、脱会する人も。残った会員は再び声明文を練り上げる。
執筆者の一人、政治学者の丸山真男たちが「三たび平和について」声明を。「朝鮮に勃発した不幸なる事件、これは明らかに世界情勢の危機を一段と深刻ならしめ人類を破滅に導くごとき新たなる大戦の姿をわれわれの眼前に描き出しつつある。日を追って変転する現実は今こそわれわれが不屈の勇気をもって平和への意志を堅くすることを要求している。中立はもとより孤立を意味するものではない。それはいずれの側の国家に対しても挑発的な行動や措置を取ることに反対するものである。」


1951年9月4日、サンフランシスコにて日本の独立を認める講和会議始まる。この会議に韓国、北朝鮮は招待されず、中国も台湾の国民党政府と共に招かれず。中国の外交部長周恩来の声明文:「中華人民共和国は講和会議にかならず参加すべきである。われわれの基本方針は日本との戦争状態を早く終わらせ、日本に民主主義と平和をもたらすことだ」。ソ連の代表アンドレイ・グロムイコは会議のあり方を激しく非難、「中国は長年にわたり日本の侵略を受け、苦しい戦争を続けてきた、そして多くの犠牲をはらってきた。中国は米英ソと共に1945年9月2日に日本降伏文書に署名した、その中国が参加しない状態では講和条約の議論も締結もありえない。」ソ連は調印せず。


1951年9月8日、午前、アメリカなど48カ国とサンフランシスコ講和条約調印。独立を果たす。賠償は軽く敗戦国としては異例とも言える寛大な内容。同日、午後、もう一つの条約を結ぶ為郊外の陸軍クラブへ。日米安全保障条約、調印。その第一条「アメリカ合衆国の陸軍、空軍、および海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する。」 占領開始から6年ー冷戦の中で日本は「中立化」ではなく、アメリカの軍事力に自国の防衛を託す道を選んだ。吉田首相あいさつ:「本日午後、日本とアメリカとの間に安保条約が結ばれたこと、また、本日朝、講和条約が締結できた事を私は喜ばしく思っています(英語で)。」


シャラー教授の解説:「講和条約は安保の厳しい条件をある意味で埋め合わせるものだった。講和条約は概ね公正でした。日本の主権と独立は回復され、日本は国際社会の一員になった。しかし、安保条約は日本を従属させるものでした。そこではアメリカの基地に関する権限が事実上無制限に与えられ、いかなる問題もアメリカは日本と協議する必要なく無期限、永久的であった。安保は日米関係の厳しい顔で、講和条約は友好的な顔であった。」


中国・アジアとの和解を生涯の宿題と考えた武田清子さんは、「こんな事でいいのかな〜と言う気持ちがあった。全面講和を願ってきたのに、朝鮮戦争になって、困難になって・・・、これで世界の一員となったと言い切れるのか。残された国々との和解がどうやってできるのか、日本が痛めつけた国との和解ができなければ、果たして・・・アメリカ一辺倒になることに対する、残された問題に対する・・・思いがあった。」


この後、中国と日本の国交正常化には20年以上の歳月が必要であった。日本はアメリカの軍事力を後ろ盾に復興の道を歩む。その一方、東アジアに大きな溝をうむことになった。


安保条約により米軍は日本に駐留し続ける事に。基地は700を越える。安保は不平等と言う声が高まり、改定に向けた動きが起こる。この安保改定に向けて日本社会は大きく揺れ動くことに。第2回は1960年の安保改定への道のりを。(第1回「日米安保を生んだ”冷戦”」終わり)

日米関係における朝鮮戦争が果たした役割、全面講和6割・永世中立・国連加入(単独講和を求めない)が7割強という世論がひっくり返る程の危機感を日本人が持ち、その危機感を利用してアメリカの思い通りに事が運んだ経緯は、現在繰り返されているのでは? 
北朝鮮の核の脅威」が同じ役割を果たし、同じような結果を招き、招いているような。
当時は冷戦時代の始まりでしたが、今は「冷戦」後、未だ見えない新しい世界秩序が生まれつつある混沌の時代。
「脅威」の克服の仕方が当時と同じであっていいのか? アメリカ一辺倒でいいのか? という疑問に対して日本人が
回答を選べる時代になっているはず・・・?ではなくて、安保は改定50年後の今も変わらず、逆に進化してますね。