平家物語「子午線の祀り」と「先帝身投げ」

1月の講読の日が20日でしたので、2週間後には2月の第一土曜がやってきました。前回、終わった後、世話役経験仲間6人で館内の喫茶店でお茶を飲みました。90代の先輩や80代の現役さんのお話を聞く貴重な機会です。その時一緒だったMさんが、「こないだ会ったとこやのに、すぐやね〜」と。本当にそんな感じでした。

前回は「鶏合(とりあわせ) 壇浦合戦(だんのうらかっせん)」でした。このお話を読んで思い出したことがありました。木下順二の「子午線の祀り」の群読の舞台です。そうそう、あの舞台、新中納言知盛は野村萬斎。厚生年金会館で見ました。朗誦と群誦で舞台装置は台のようなものがあるだけ。お芝居と言っても、群読のグループが大小入れ替わるぐらいで、4時間は興味を失ってしまうと長すぎるかもという舞台です。いつの時だったか、少し調べてみると、意外や意外、昨年の2017年に野村萬斎新演出で世田谷パブリックシアター版の上演があったばかりのようです。

1979年の初演に続き、1981年、1985年とほぼ同じメンバーで上演を重ねた。ここまでは原作を少し縮めた「宇野台本」が使われていたが、1990年には作者の意向で「原作全曲上演」が試みられ、1992年に同じ形で上演。さらに初演以来の演出スタッフの下、1999年に新国立劇場、2004年に世田谷パブリックシアターのレパートリーとして取り上げられた。つまり、今回は初演から数えて8演目ということになる。現代演劇では稀有の道程を辿ってきたといえよう。


私が見たのは2005年1月の大阪公演だったようです。先に木下順二の「子午線の祀り」のハードカバーの本を読んでいて、これが上演されるというので大変楽しみにしていました。内容は、時間の横軸に縦軸の宇宙の引力が加わって人間界の勝敗を決する源平(平知盛源義経)の壇ノ浦の戦を描いたものでした。観世栄夫演出、武満徹音楽。知盛は野村萬斎。影身は木下順二による山本安英へのアテ書きで、執筆当時すでに高齢だったため出番が少なくしてあったそうです。唯一の架空の人物で物語全体を俯瞰した巫女さんのような役割で、2005年の大阪では高橋惠子さんだったようですが、あまりよく覚えていません。99年の新国立劇場版の解説が、見た印象にピッタリの文章なので参考に貼り付けておきます:

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」
平家物語」に題材をとり、劇文学と演劇とがせめぎあう面白さに溢れた、日本の戦後演劇史上に燦然と輝く不朽の名作「子午線の祀り」。
平家物語木下順二の世界とが見事に調和した古典劇にしてすぐれた現代劇能・狂言、歌舞伎、新劇と、ジャンルを越えたスタッフ・キャストが競い合い、磨き合いつつ創り上げ、統一された舞台。独誦から、また俳優全員による合誦までを自在に組み合わせつつ朗読する「群読」という独特の様式を通し、せりふと語りが鮮やかに共鳴し、あわせて研ぎ澄まされた言葉がもつ荘厳な響きの深さ、美しさを確立した作品。大宇宙の、永遠の時間の中の人間、巨大な運命と人間…ギリシア悲劇シェイクスピア劇にも比肩する壮大にして格調高い舞台。(http://www.nntt.jac.go.jp/season/s48/s48.html)

あの頃、この講義を聞いていればもっと舞台を楽しめたと思います。でも、何となく平家物語に関心はあったようです。さて、土曜日の講義は前回の矢による攻撃についての先生の疑問?からスタート。平家は500人の兵士に弓を射させて、源氏の義経軍はどこから矢が飛んでくるかも分からず、盾も鎧も役に立たず射すくめられるという場面。

的を目当てに水平に弓を放つと威力があるのは分かるけど、空に向けて矢を放ってはひょろひょろ飛ぶだけではないかと不思議に思ったそうです。家で理系のご主人に確かめたら、放物線にものを飛ばせば遠くまで飛ぶし、重力があって突き刺さるのではないかと言われ納得したというお話でした。”理系・文系の頭”という言い方は、今ではあまり使われないようですが、懐かしい言い方でした。


さて、前置きが長くなりました。「先帝身投」に入ります。
写真は回覧で回ってきた安野光雅による「平家物語」より。
先帝というのは、清盛と時子の娘・徳子と高倉天皇との間にできた子・安徳天皇のこと。祖父は後白河天皇です。
潮目が変わって源氏が優勢になり、平家の船は水手(すいしゅ)、梶取(かんどり)たちは射殺されたり、切り殺された。
中納言知盛卿は、御所(天皇)の乗っている船に参って「もはやこれまで、見苦しい物などは海に投げ入れてください」と船の前後に走り回り、拭いたり、ごみを拾ったり、掃除して回った。(”飛ぶ鳥後を濁さず”を実践していたんですね。先生は知盛は大人物と仰っていました。)
女房達に戦況を聞かれた知盛は「珍しい東男(あづまおとこ)をご覧になることでしょう」と笑って答える。

天皇の祖母に当たる二位殿(時子)は、この有様をご覧になって、日ごろから覚悟していたことなので、にぶ色(濃い鼠色)の二枚重ねを頭にかぶり、練り絹の袴の股立(ももだち)を高くとって、神璽(しんし・勾玉)を脇に挟み、宝剣を腰に差し、主上(しゅじょう)を抱きかかえて「わが身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ。君の御供に参るなり。御心ざし、思いまいらせ給はん人々は、いそぎつづき給へ」とて、船端へ歩み出でられけり。
安徳天皇は今年8歳になられたが、「どこへ連れて行こうとするのか?」と尋ねられて、涙ながらに「ご運は尽きてしまいました。東の伊勢大神宮に、お別れを、そして西方浄土に招かれるために西に向かって念仏を唱えてください」と申しますと、幼帝は可愛い手を合わせます。二位殿はすぐさま抱き上げて「波の下にも都がありますよ」と『なぐさめ奉(たてま)ッて、千尋ちひろ)の底へぞ入り給ふ。悲しき哉(かな)、無常の春の風、忽(たちま)ちに花の御姿をちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈め奉る。」(一番下の絵は安徳天皇