二条城二の丸御殿大広間と坂本龍馬暗殺

2月の義母の命日をだいぶ過ぎて、気になっていたお墓参りに、先週金曜日、夫の車で出かけました。
私の実家は長女の私を筆頭に二人の妹たちも結婚して名前が変わっています。両親は、父が長男でもある実家は自分たちの代で途絶える覚悟を、若い頃からしていました。それで、浄土真宗の東山浄苑が納骨棚の上に観音開きの小さな仏壇があるスリムなロッカーのような納骨仏壇を売り出したとき、その一つを購入しました。遠く離れ離れになった娘たちも、京都なら会いやすいだろうと考えてのことでした。
我が家は、夫が実家を離れて弟に長男代行をお願いしたので、50代の初めごろ、納骨仏壇を買い置きしました。息子たち二人ではお墓のお守りは無理だし、また必要もないと考えてのことでした。長年、空っぽでしたが、2年ほど前、加賀市のお墓から分骨してもらいました。
隣の両親が京都まで行けなくなった今、我が家のお墓参りのついでに、両親のお墓もお参り出来て、本当に好都合。
母が、その後どうなる?とコーヒータイムの時、言ってましたが、だれも訪ねなくなったら、区切りのいいところでお骨はまとめて処分されて、空いたところは又売りに出されるんじゃない。それも、いいことだと思うと、二人でそんな話に。

ということで、私の実家と夫の両親のお参りに京都へ出かけることに。お参りを済ませて、ちょうどお昼ごろになったので施設内で食事をしようと、外に出ると紅梅が満開でした。
せっかく京都まで来たので、帰りはどこか寄り道をと思っていましたが、ちょうど前日、NHKのBSの番組で磯田道史さんの「英雄たちの選択」で坂本龍馬暗殺が取り上げられていました。
竜馬が暗殺されたのは大政奉還の一か月後。今年、明治150年、15代将軍徳川慶喜が、各藩の重臣たちに大政奉還を告げた大広間のある二条城を訪ねることに。

二条城は、近くに予備校があり、私が採点のバイトをしていた頃、
打ち合わせに通った懐かしい場所でもあり、また、39歳で胃の手術を受ける3か月ほど前、
今は山口にいるWさんに誘われて二人で初めて京都へ出かけたのも二条城でした。
その二条城の唐門が真新しく修理されて輝いていました。こんなに綺麗だったんですね。
日光東照宮みたいです、といっても、私が見たのは静岡の久能山東照宮ですが。


唐門は重要文化財
唐門から見える正面の大屋根が国宝の二の丸御殿。
ここは、履物を脱いで下駄箱に置いてスリッパに履き替えて一巡します。

城内は写真撮影禁止ですので、パンフレットの写真で。
「1867年(慶應3年)10月13日、慶喜は政権を朝廷に返上することを表明、二の丸御殿の大広間で在京40藩の重臣たちの意見を聞き、翌14日に、朝廷に申し出、翌々日の15日に朝廷が許可して江戸幕府の幕は降ろされた。」
写真は大広間の一の間・二の間。将軍と大名や公卿衆との公式の対面場所。一の間は上段の間。書院造り。全体が格天井になっていて、将軍が座る奥の一の間の天井はもう一段高くなっている。障壁画は加納探幽筆。

今回は、人形の将軍様が、ずらり並んだ各藩大名やご家老たちの裃姿の人形たちに、大政奉還を告げる場面を再現してありました。
二の丸御殿の建物の配置は雁行型というか図のようになっています。入口すぐには「遠侍」が控える部屋が一・二・三の間まで、あとは勅使の間。式台と老中の間があって、廊下を進むと、3つ目の大きな部屋が写真の大広間の一の間・二の間、真ん中の帳台の間と納戸を挟んだ反対側には四の間、手前に三の間。
蘇鉄の絵が描かれた廊下を進むと奥に「黒書院」の4部屋。浅田次郎新聞小説「黒書院の六兵衛」がありましたが、あれは江戸城の黒書院。「大広間に次ぐ公式の場で、将軍と徳川家に近しい大名や行為の公卿などが対面した。」
最奥の部屋が「白書院:江戸時代には「御座の間」と呼ばれることから,将軍の居間と寝室であったと考えられる。水墨画に包まれる空間は落ち着いた印象」。
写真↓は黒書院、白書院の建物の外側。奥から戻る途中、二の丸庭園越しに大広間の廊下の建物の一角が見える。
お庭の蘇鉄のコモ掛けが珍しい形をしているのは、ここ独特とか。

二の丸御殿の見学を終えると外に出て、さらに奥の本丸御殿に移動です。
内堀にかかる東橋を渡って本丸櫓(やぐら)門をくぐって本丸へ。


二の丸御殿と比べると、
焼き板に囲まれた質素にも見える本丸御殿。
徳川風に見えないはず、明治26年桂宮御殿を移築したものとか。
本丸庭園を奥へ進むと石の階段があり、
それを上ると天守閣跡です。
ここから本丸御殿越しに山が見えます。
北東に、右大文字山です。
手前の石垣が天守閣跡の石垣で、内堀も。

坂本龍馬は二条城の中に入ったことがあったのでしょうか・・・
前の日、木曜日に見た「英雄たちの選択」では:(NHKの番組欄から)

英雄たちの選択▽竜馬暗殺 最期の宿に秘められた真相〜なぜ近江屋だったのか?
幕末の風雲児・坂本龍馬が暗殺されて150年。真犯人と黒幕について多くの説が唱えられてきたが、今回は龍馬の宿選びという新しい視点で真相に迫る。
大政奉還を実現させた龍馬は宿探しに苦慮していた。京都には伏見の寺田屋海援隊本部のある酢屋など定宿がいくつもあったが、幕府方に目をつけられている可能性が高い。安全面から見れば土佐藩邸が有力候補。しかし、龍馬はそれまで使ったことのない近江屋を隠れ家に選ぶ。龍馬が安全を犠牲にしても成し遂げようとしたのは何か?なぜ暗殺犯は龍馬の潜伏先を知ったのか。磯田道史が京都の街を歩いて真相に迫る。
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】大石学,宮嶋茂樹,宮崎哲弥,【語り】松重豊

◎いよいよ本丸の出口、西橋の石垣。内堀に沿って歩くと土蔵が。米蔵だったそうです。


内堀と外堀の間に梅林があります。
紅梅は咲いていましたが、白梅はちらほら咲き。
男の子が梅の枝を手に取って花の香りを嗅いでいます。
5,6人のグループで来ているようなので、「どこから来たの?」
「北山小学校です」「何県の?」「京都です!」
「そうなの」「遠足です」「先生は?」「僕ら先生なくても自由に歩いて…」
「そう、地元だから」「卒業遠足なんです」「じゃ、春から中学生!」「そうです!!」
「そう、それはおめでとう!頑張ってね!」「は〜〜い!!」
かわいいですね、小学6年生の少年グループ、声をかけてよかった!


いよいよ、元来た東大手門にやってきました。
警備の侍が詰めていた番所の建物です。

さて、あの「英雄たちの選択」では、最初に、竜馬の考え方と立場を図解して、朝廷を担ぐ討幕派の薩長、対する幕府、竜馬は、どちらでもなく、朝廷と薩長土佐、幕府方から有能な人物を集めて新政権をという説明が。出だし途中から見たので大体こんな感じ?
竜馬を暗殺したのは最近の研究では幕府の見廻り組、実行犯は佐々木忠三郎。命じたのは、幕府大目付の永井尚志(なおゆき・なおむね)か、幕府守護職会津松平容保、ただし、竜馬は永井を何度も訪ねて人事構想を練るなどしていたので、恨みから容保かという感じ。
◎昨年11月19日に放送された「NHKスペシャル【ドラマ 龍馬 最後の30日】」では、永井尚志が早まった判断をして見廻り組に暗殺の指示を出したことになっていました。松平春嶽が知っていてそれを咎めなかったのは、幕藩体制から新国家への大変化に対する恐怖心を共有していたからと明治の10年か15年に語らせています。(NHKのドラマサイト:https://dorama9.com/2017/11/18/post-23461/)

竜馬が志半ばで暗殺されたことが、
ロマンを生みます。
竜馬がもし生きていれば、
明治維新はもっとうまく行ったのではないか。
薩長の強引なやり方やその後の
富国強兵のひずみ、東北への報復など、
維新のやり過ぎや足りないところを竜馬なら・・・と託す想いが強く、
それを託される竜馬は、”英雄”だな〜・・・
と磯田さんが締めくくっていました。


「二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。」
「二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができます。1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産に登録された二条城は、徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます。」

最後の将軍、徳川慶喜が二の丸御殿の大広間で大政奉還を諸侯に伝えてから、
丁度、一か月後の慶應3年(1867年)11月15日、

薩摩藩邸のすぐ近く、近江屋の二階で、
坂本龍馬中岡慎太郎とともに暗殺されました。
それから、150年が経ちました。
恨みによる暴力(殺人・戦争)は、いけませんね。
入場料金600円、駐車料金1000円でした。
美しい青空の良い天気に恵まれました。
東寺を過ぎると京都にお別れです。
一路、大阪に向かって走り出しました。