『永続敗戦論』の白井聡氏新著『国体論 菊と星条旗』(日刊ゲンダイ)


白井聡氏、「永続敗戦論」発表後、精華大学に来られて関西から発信しておられましたが、今回は新著の発表。国体についてです。「国体」というと戦前の言葉で、戦中生まれで戦後育ちの私にはピンとこないし得体のしれない言葉。でも、この記事を読むと、なるほどね〜。戦前の国体が”菊”の天皇ならば、戦後の国体は、象徴天皇ではなくて占領軍からそのまま日本を支配し続けるアメリカの”星条旗”であり、日本は、その”支配”さえも意識できずに”従属”している。それは、戦前の「国体」という”入れ物”が生き残り、中身が”星条旗”のアメリカに変わったに過ぎない。なるほどね〜。分かり易いですね〜。(昨日の朝のこと、前日まで、蕾だったクレマチスが開いていました)
◎新著のダイジェストのような記事ですので、日刊ゲンダイの記事写真から書き移してみます:

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戦後日本のエンドレスな対米従属は、アメリカに支配されているという事実を日本が否認してきた結果である。そう断じた「永続敗戦論」で注目を浴びた政治学者が、再び衝撃的な新著を出版した。「国体論 菊と星条旗」(集英社新書)だ。「国体」と言えば戦前の天皇制だが、戦後にも「国体」は存在し、その頂点に立ったのは、なんとアメリカだったというのだ。一体どういうことなのか?

 覇権国アメリカに従属している国家は星の数ほどありますが、日本の従属ぶりは異様です。支配されている自覚がないまま、「日本を愛してくれるアメリカ」という幻想に執着し、自発的に従属を続けている。昨今の右翼は街頭デモで、日の丸だけでなく星条旗を振り回すし、公式の日米関係でも「思いやり予算」「トモダチ作戦」など以上に情緒的な言葉が使われる。支配・被支配の構造が歪んでいるだけでなく、支配されていることすら否認している状態は、何かに似ている。 そう、天皇と臣民の関係を親密な「家族」にたとえて抵抗や批判的思考を封じ込めた戦前の天皇制、すなわち「国体」に極めて近いんじゃないか。そうした問題意識から戦前、戦後の歴史を検証して明確に見えてきたのが、アメリカが支配する構造そのものが、「戦後の国体」となっているという事実でした。首相が今上天皇をないがしろにし、アメリカに媚を売っているのが、何よりの証左です。

本書では、戦前の「日本」の3段階の歴史が、戦後において反復する様を描き出している。明治時代の混乱の中で形成された「国体」は、大正時代につかの間の安定期を迎えるものの、昭和に入るとファシズムの土台となってこの国の無謀な戦争に導き、破局に至った。恐ろしいのは「戦後の国体」も、形成期、安定期を経た今、再び「破滅への道を歩んでいる」としていること。「失われた20年」は崩壊の始まりに過ぎなかった。


  戦前においては、明治にできた国体システムが大正デモクラシーでいったん緩んだのですが、別に「国体」が消えてなくなったわけではない。国民の心の中に、意識できないくらい深く、自然に「国体」の観念が浸透した。だからこそ、その後に一切の議論を許さない昭和の天皇ファシズム体制として国体は再強化され、無残な敗戦を迎えます。 「戦後の国体」もよく似た経過をたどっています。敗戦後の日本人は、アメリカに対して戦争に象徴される暴力的な側面への恐れと、物質的な豊かさに対するあこがれという相反する気持ちと緊張感を持っていました
 しかし、70〜80年代に日本の経済力が、ある面でアメリカを凌駕すると、その支配者性は忘却され、アメリカの文化の中に日本がすっぽり入りこんでしまった。
 その象徴が、1983年に開業した東京ディズニーランド。園内に入ると外部が一切見えない構造は、日米関係の隠喩だといえます。アメリカの懐の中に入ると日米以外の世界も、アメリカそのものも見えなくなる。だから、あの時代に日本はアメリカをしのいだようで、実は自国を客観視できないほどアメリカに浸透されてしまった
 戦前、自然化した「国体」に歯向かうことが困難だったように、「戦後の国体」としてのアメリカに媚びへつらうだけの空気が、それ以降、日本に充満していったのです。(つづく)


《つづきの前に》
◎私たち戦後の教育を受けた者が抱えるアメリカに対する相矛盾する気持ち、反発と憧れ。私もそうでした。冷戦の頃「アメリカとソ連とどっち好き?」なんてことを中学生の時言い合ったこともあります。「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を学校の図書館で借りて読んでいた私は、ソ連の方が好きでした。ソ連というよりロシアですね。ロシア民謡が流行っていましたし、なんとなく、原爆を落としたアメリカより、ロシアでした。シベリア抑留や北方領土のことはすっぽ抜けでした。資本主義より社会主義という幻想に見事にとらわれていました。国境を越えた岡田嘉子さんと同じです。
そして60年安保闘争。中3から高1の年でした。府立高校の現代社会の授業で「アメとムチ」を教わり、下校途中の公園では阪大生のアジ演説を聞きました。米軍占領下の沖縄の高校生が記念大会に参加して甲子園の土が持ち帰れないってことがあり、沖縄返還を意識。イスラエル建国の「エクソダス」を読んだのもこの時期。そして大学では「いかなる国の核実験」問題。ベトナム反戦は当時の大学生の常識?で「ヤンキーゴーホーム」のデモや「ベトナム戦争反対」の署名運動に参加しました。大学祭で、コカ・コーラは一生飲まないと決心したり。
でも、テレビはアメリカのホームドラマや、ボナンザやローハイド、逃亡者でしたし、ベラフォンテ・ファンだったし、英語が好きだったし・・・。白井氏が書いているように、”アメリカへの憧れと緊張感”を持った時代の娘でしたが、日本がアメリカに従属しているということだけは自覚できていました。それが、戦前の天皇制「菊の国体」の反復だとは・・・・・・考え及びませんでした。つづきです:

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気鋭の政治学者が、新著「国体論 菊と星条旗」(集英社新書)で、戦前の日本人にとっての天皇制が、アメリカになっていると喝破した。しかも戦前と戦後で歴史は反復している、と。「国体」が導いた、ファシズムから無謀な大戦へ、というあの破局的な結末を、再び、繰り返すのか。

 天皇を父親のように慕わせ、命をも捧げさせた戦前の「国体」。それを戦後の日本は廃棄したつもりでいるけれど、実は違う。我々は「戦後の国体(対米従属構造)」に縛られているのです。「国体」の根本的な問題点は支配の現実を否認させること。「国体」は、支配される人間から考える意思と能力を奪い、「愚かな奴隷」にしてしまう。揚げ句、その奴隷たちは、自由で批判的な思考をし、行動できる人間に対して、体制に従順でないと言って、誹謗中傷するようになる。こんな愚劣なメンタリティーが戦中と同じく、最近、増殖してきました。
 米ソ冷戦終結とともに本来はアメリカ依存も終えればよかった。ところが、アメリカという「国体」に固着したことで、日本は「失われた20年」に突入、衰退した。
 冷戦終結以降の、日本の衰退の時代の始まりを記す象徴的な出来事が「オウム真理教事件」。
 あの頃、オウム信者を見て、「なんだ、このおかしな人たちは」と思ったものですが、今の「ネトウヨ」なんてオウム信者みたいなもの。その大将が総理大臣なのですから、オウムはある意味、勝利した。


 後世の人が平成を振り返れば「この時代の日本人は、バカじゃないの」と思うでしょうね。私たちが昭和ファシズム期に対して思いう気持ちと同じです。対米従属を深め、国家の統治システムも、国民の統合も破壊した安倍政権を、我々の世代が長期本格化させてしまったのですから。

戦前と戦後の「国体」の歴史が反復しているという白井氏の歴史観によれば、現在のフェーズは戦前で言えば、太平洋戦争に突入しているようなもの。では安倍政権の後の日本は、再び”敗戦”で新たな国づくりとなるのか。

 安倍政権は、氏の2度目の首相登板でもあり、また祖父・岸信介の反復でもあった。大事な出来事はくり返すというヘーゲルの考え方は本当です。
 とすると、鳩山由紀夫政権時代がやり損ねた課題への挑戦の反復も不可避。つまり、今の異様な対米従属から脱皮しなければならないという機運が再び盛り上がらざるを得ない1度目は失敗しました。しかし、対米自立という課題に挑まざるを得ない時がやってくるのでしょう。