見舞客とタケノコと歩行器とストレプトカーパス


先週の日曜日のこと、朝、駅向こうの従弟から電話。母の妹の嫁ぎ先が山中温泉の奥の栢野(かやの)というところにあります。栢野の大杉という天覧の巨大杉のある山の中です。女学校を出た叔母さんは戦争中、軍人さんのお見合い写真で結婚を決めて、写真で結婚式をあげて、お婿さんになる人の17,8歳の弟が付き添って中国大陸へ渡りました。母親(私の祖母)は、女ばかりなので戦争にやるつもりで家の中から見送ったそうです。5人姉妹の真ん中が私の母、すぐ下の妹がこの叔母さんです。
戦争が終わって、22年に長男を出産、長女、次男の3人の子供ができ、3人目が当時流行っていた小児麻痺にかかり、片手に障害が残りました。その次男が長じて箕面在住となり豊中で中学の先生をしていて、定年後の今は夜間中学の先生をしています。幼いころ、阪大病院に入院したり、我が家によく来ていましたので、大阪の子になりたいと父に頼んだら、お金が要るんだぞと言われて、田舎の家のテレビの上に野村證券の金庫があるから、あれを持ってくるから、箕面の子にして〜と言ってた頃がありました。それが、今、箕面に住んでいるのですから、幼いころの夢が叶っていますね。
当時、私は高校生、妹は中学、一番下の妹が小学生。この小学生の妹がとても可愛がっていました。3月末に、真ん中の妹夫婦がお見舞いに来てくれた時、従弟が病院で母から聞いたと言って、朝、出勤前に我が家を訪れて、妹と何十年ぶりかで会って楽しい時間を過ごしました。一番下の妹夫婦が来たとき、連絡をと思ったのですが、時間が合わず、会えませんでした。
栢野の叔母さんは、16年前に糖尿病で亡くなりました。母とは顔も似ていて、子供たち同士も年齢が近く、親戚の中でも親しくしていたので、長男夫婦が連休にお見舞いに来たいと言っていると聞きました。母は、回復も順調なので、来なくていいと言ってほしいと言うので、それを駅向こうの従弟に伝えてありました。

ところが、朝の電話では、妹がいる岐阜に寄って、そこからこちらに向かってる、病院へ行く前にウチへ寄りたいということです。栢野の長男は、真ん中の妹と同い年、団塊の世代ですが、特殊な能力の持ち主で、頭にナビゲーターを備えているのか、鳥の目が仕込まれているのか、初めての所でも道路地図を見ないで正確に行きつくことができます。若い頃からで70歳を過ぎた今も衰えていないようです。
この兄、妹、弟たちは、賑やかなお喋り一族。両親が生きておられたころから家族そろってそうでした。兄弟が大阪で大学生だったころ、ふらりと母の顔を見に来ると、帰った後、母が「あ〜疲れた」とよく言っていました。我が家は父を筆頭に無口で声も小さいし誰も余りお喋り上手ではありません。来客があると父との間で嫌な空気が漂うので、それを避けるために母が全部喋ります。母のお喋りは父の無口のせいです。一方で、従弟達に言わせると、我が家を見てると掻き混ぜたくなるんだとか。そんな一族が来るというので、夫と二人、嵐の前の覚悟をしていたのですが、車が到着して、長男夫婦に、次男夫婦、それに、岐阜の妹さんまで、総勢5人!! 

家の中に入る前から大騒ぎです。長男の奥さんが、「ゼンマイやワラビ、シイタケをとってきたから」と言えば、長男が「孟宗竹のおいしいタケノコを掘ったから」、次男が「いま、ネエさん(私のこと)はタケノコの世話してるどころじゃないで」と言ってくれたとか、岐阜の妹が「私が全部皮をむいてきたからね」と矢継ぎ早に話し出して、ありがたいやら賑やかなことこの上なし。
「とにかく、中に入って、父も呼ぶから」と家の中へ。出来上がった通路を渡って父もビックリ顔でテーブルに着きました。急遽、手当たり次第に椅子を寄せてコーヒーカップを出して、一度では足りないので二度ペーパーで濾してコーヒーを淹れました。丁度生協さんでカステラを頼んでいたので助かりました。その後、2台の車に乗って病院の母のお見舞いに行ってくれました。出がけに夫が病院の廊下は静かにと注意すると、皆で首をすくめて笑っていました。

◎大きなタケノコがどっさり。大鍋3つで一時間ゆでて、一週間はタケノコ三昧できそう。わかめと一緒に煮たり、お味噌汁に入れたり、タケノコご飯にしたり、昨日は、タケノコの天ぷらにしてみました。母が退院した時にも食べられるよう一部は冷凍に。叔父さん亡き後もこうやって栢野のタケノコが食べられるのは幸せです。

◎昨日は、嬉しいことがもう一つ。前日のレントゲン検査の結果が良好で、いよいよ母が歩行器で歩く訓練が始まりました。1か月半以上車椅子生活でしたが、いよいよ立って脚に体重をかけて歩けるようになります。インシュリンの注射を昨日は夫が打って、そのあと、車椅子から歩行器に移って看護師さんの付き添いで歩いて病室を出て食堂に向かう母を見送りました。

◎そして、私は気の重い宿題にとりかかることに。夫は、高校時代の仲間と梅田で食事会。私は、母が大切にしているストレプトカーパスの植え替えと差し芽の作業に入りました。これは母が得意で、ここ十数年、毎年、差し芽で苗を更新して、私は鉢をもらうだけでした。冬の間も日の当たる二階の廊下に取り込んで、春になると更新の作業をしていたのです。空の鉢を10個ほど並べて、母が用意していた花の土を入れて、茎をはさみで切って芽がついているところを差していきました。どれかが生き残ってくれることでしょう。(紫の花の写真は我が家のカーパスに近い写真を選んでネットから。2月頃が満開。今は花が終わって植え替え時期)

◎今日は、ヘルパーさんの清拭が終わったら、父に病院へお見舞いに誘いました。休日は一番端の入り口しか開いていなくて距離が大変なので車いすです。母は、「お父さんも来てくれたの。元気?」と、父は「元気や」と答えています。「もう、歩いているのよ。この歩行器で」「ほぅ〜」と。

看護師さんが来られて、今日のインシュリンの注射は、「自分のことは自分でしないといけない」と言う母が打つのを見守ることに。いつもの看護師さんが私のことを「お嫁さん」と呼びました。訂正しようかなと思いましたが、大したことじゃないから、いいか・・・夫が息子さんに見えるということ!は、すばらしいことです。母も父も聞こえないし、夫は車を置いてからだったので、いなかったし、気づいたのは私だけ。訂正は次の機会に。

注射を終わって、看護師さんが片付け終わって、もう一度迎えに来てくださると、お別れです。今回は、車椅子から立ち上がって歩行器を使って歩いて病室を出ました。
父が「検査か?」というので、「リハビリ病棟は、病人扱いじゃなくて、着るものもパジャマじゃなくて普段着を着てるでしょ。食事も病室ではなくてみんなで食堂で食べるの」と説明。父は感心したように「ほぉ〜」と。
さぁ、私たちも早く帰ってお昼です。父は起きてからすぐヘルパーさん、そして病院なので、早く牛乳とパンとサラダを食べないと。
病院の保育所の鯉のぼりがヒンヤリした風に泳いでいます。