コロナ禍でも面会許可、新幹線で神奈川へ

◎先週の土曜日、夫は午後からのシルバーの仕事で昼食を早めに済ませて出かけたところへ神奈川の妹から電話がありました。いったん退院して家に戻ったはずの妹が脳梗塞で2日に入院したということです。妹の長男(甥)から連絡があったようでコロナに関わらず面会できるということです。面会できる?ということは長くないから危ないからということ?と頭の中で。妹は心の整理がつかないので今日ではなく明日でかけるというので、私は夫が帰ってきたら相談して返事することに。

電話では妹も私も、末の妹が退院して家に戻ってから連絡がないし放射線治療の経過や結果については何も言わないのでどうなったのか心配だったと。1月に初めて聞いた時すでに肝臓のがんの大きさが5x8㎝と言われて余りの大きさに絶句しました。手遅れ・・・が頭をよぎりました。それから放射線照射の治療が始まり、終わったと思ったら胆管が詰まったり肺気腫になったりと入院が続きました。その間コロナウィルスのためお見舞いにも行けず、6月19日やっと退院、それから2週間2近く経っての脳梗塞で入院という。

5日の日曜日、午後からの面会に向けて小田原12時38分着のひかりに乗ることに。夫と二人で新幹線に乗るのは何時の事以来? 私一人では父が亡くなる年の母の退院と重なる日に半年前から音楽の友に取ってもらっていたウェルザー・メスト氏指揮クリーブランドの一寸高額なコンサートのチケットがあって夫や両親に「行って来い」と言われて出かけた東京一泊旅行以来です。あんなヒヤヒヤする思いは二度としたくないと今年は夏の観劇や演奏会のチケットは取らないことにしていました。最悪の場合を予想していたということになります。

それでも妹からは何度かの入院や手術でも癌の話は一切出ないのでこちらからも触れないで来ました。今回も甥の話ではケアマネさんたちと在宅での調整をしていた矢先のことだったと。血栓がまたどこにどういう風にできるか予測がつかないので話しかければ答えられる今のうちにということのようです。

妹夫婦と小田原の改札を出たところで落ち合って東海道線で辻堂まで、甥が車で迎えに来てくれて直ぐ駅前の病院へ。病院内では甥の手配で面会許可が下りていて名札をもらって4人で7階へ。待合の所で妹の夫が待っていてくれるのが見えました。さすがに気落ちした感じでしたが久しぶりの挨拶を交わして。姪もいました。甥の奥さんと一人娘にも会えました。姪の案内でまず妹と私の二人が病室の妹に会いに行くことに。

昨年父の一周忌で京都とその後箕面のホテル「風の杜」で偲ぶ会をした時以来です。妹は痩せたから母のことを思うと遠く離れていて良かったと言っていましたが、病院のベッドで横たわる妹の変わり果てた姿にまず驚きました。黄疸が少し出て顔色も変わっていますし本当に可哀そうでした。

近づくと目を開けてくれて、私が分かったのか大きな嗚咽が漏れました。もう可哀そうで可哀そうで、頭や額や頬をなでながらよく頑張ったね、一度も弱音を吐かずに偉かったね、娘も息子も立派に育って良かったじゃないと思わず口に出していました。

妹も目を合わせてその都度答えるかのように嗚咽が大きくなって涙が溢れます。ベッドの向こう側に立っている姪は5年前の脳梗塞で手足が不自由な父親(妹の連れ合い)の介護と病気の母親の看護と仕事を両立させています。その姪が母は喜んでいますと。妹が泣くのを見るのは初めてです。真ん中の妹と変わりました。

妹たちは同じ神奈川で親しく行き来していましたが、コロナ禍で近くに居てもお見舞いにも行けずやきもきしていた妹は話すことが沢山。家族の者すらこうなるまで会わせてもらえなかったと言っていますのでコロナは残酷。

妹は励ましたり慰めたり沢山話していましたが最後に私から「明日午後からお母さんに面会出来ることになってるから会ってきたこと話しておくね」と。「お母さん」と「ありがとう」の二つの言葉は聞き取れたと妹が言ってましたが私にはわからなかった。姪っ子も席を外してくれていたので、そろそろ変わらないとと夫たちを呼びに行きました。

妹の夫や私の夫を見るたびに嗚咽が大きくなりました。夫たち二人も一寸驚いた様子。確かに元気なころの面影はありません。疲れるといけないので引き上げることに。廊下に出てから姪に封筒を渡しました。最初は固辞していましたが、私が「物入りだから使って、これは叔母さんが姪っ子と甥っ子に妹のお世話をよろしくと言うつもりで渡すのだからお父さんには言わないで受け取って」と言ったら姪も私の気持ちを汲んでくれて即「じゃお母さんのために使います。弟にも渡します」ときっぱり。通じてよかった。

帰り小田原の駅で30分ほど時間があったのでスターバックスで一息入れながら少し話しました。妹が「もっと大変かと思ったら何もかも理解できて反応も良かったので本当に危ない状況なのか分からなくなった。このまま持ち直すような気がするけれど」とも。そして私には「お母さんが会わせてくれたのよね」と。最初なんのことかわからなかったのですが、母が入院しているから会いに来れた事を言っているのだと分りました。そうか、母が家に居れば私は会いたくても来られなかったのかも。確かに母の心配をしないで行ってこられたのは入院中だからですね。

小田原駅の改札口で会ったとき、こんなことでなくて会えればよかったんだけどと夫が言っていました。別れるときも、年を取るとこんなことでしか会えなくなるね~とも。年を取るというのはそういうことでもあるんですね。

4時7分のひかりで大阪へ。煙突が見えて富士のあたりがみえます。雲が厚く低く降りています。来る時、天竜川も大井川も水かさが増えて泥川になっていました。熊本では球磨川が決壊して沢山の行方不明者が出たと言います。西に進むにしたがってお天気は回復気味。

浜名湖では車窓のすぐ近くでも湖面が見えます。 米原では街並みの向こうに太陽を受けて銀色に光るものが見え、あれはきっと琵琶湖だと思いました。米原から琵琶湖を見たのは初めてです。大津を過ぎて京都。ろうそくのような京都タワー。雲間から太陽ものぞいたり、関西は朝から雨は降らず曇りだったようです。山が迫って山崎あたり、サントリーウィスキーの独特の建物が見えていよいよ大阪に入ります。

新幹線の中で甥からラインで連絡が入りスマホでテレビ電話が出来るから明日の母との面会で妹も参加してやろうということに。やったことがないというと練習すれば大丈夫という。若い世代がいると違いますね。甥は静岡県の市の福祉課の職員でコロナ禍で会えないお年寄りとの面会をテレビ電話でやって喜ばれているという話を運転しながらしていました。帰って夕食を終えて一休みしてから大阪、神奈川、静岡の3人で練習することに。明日本番ですが何とかなりそう。母に話すべきか、話すとしたらどんな風に…と思っていましたが、明日は話そうと決めました。