ホールケーキと12月15日からのメモ・いま思う『人生は公平』

◎クリスマスイブの夜遅くラインに従弟から「明日午後お邪魔したいと思います」と連絡が入りました。そうか~大学生の娘のブラスバンドのクリスマスコンサートが尼崎であって、娘は副指揮者だと言っていました。明日はクリスマスだし、生協で頼んでいた冷凍のケーキを冷蔵庫に入れ直しました。

万博の「太陽の塔」の時のように夫婦で来宅かと思ったら、黒い車から降りてきたのは従弟一人。彼女は美容師さんなので、パートで手伝っている美容室が年末は忙しいので今日は一人とのこと。丁度12時過ぎで、私たちは昼食を摂っていた最中。「お昼はパンでいい?」と聞いたら済ませたというので、じゃ食べかけの私たちが済むまで待ってもらって、ケーキを出すことに。

箱のラベルには、福岡県の五洋食品産業KK製「クワトロベリートルテ」とあり、名前通り、4つのベリー、イチゴとブルーベリーとラズベリークランベリーがたっぷりのケーキが出てきました。コロナでなければ私の友人たちを呼んでクリスマス忘年会をしているところでしたが、今回は母のこともあって、二人で寂しくというところを、まさにグッドタイミングで小松の従弟が来てくれて助かりました。

とても美味しいケーキでした。夫が我が家の薄いコーヒーをバカ?にしている従弟に今日こそ「美味しい」と言わせてみせると、濃いめのコーヒーを淹れるのに挑戦。成功!でした。右の写真は従弟が持ってきたラスク。2時過ぎ、4時開場なので駐車場を探すため早めに出ていくという従弟の車を二人で見送りました。

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◎母の危篤から持ち直した10日余りのことを思い出しながら書き留めておくことに:

◆15日のことですが、出先で私のスマホに母が入院している病院の担当医から電話があり、騒音で聞き取りにくく後で私から電話をする旨伝えると、大きな声を出すから今聞いてほしいと言われ、これはただ事ではないと思いました。夫は箕面の山歩きに出かけていてスマホの電源を切っています。さて、どうしようと、駅の近くなので、駅前のロータリーのタクシー乗り場へ行けば確実だと思って駅へ向かいました。タクシーに乗って、千里中央西町の病院の名前を告げました。運転手さんに「新御堂でいいですか?」と言われ、前回乗ったタクシーは5丁目から緑ヶ丘を抜けるコースで遠いように感じたので新御堂筋線の直線コースの方がかえって早いと思い「はい」と答えました。

気が気じゃない時ほど話して落ち着こうとするのか、事情を言ったあと、なんで私がこんな話をしだしたのか覚えがないのですが、「大昔『恐竜が、ジュラ紀とか白亜紀、一時期栄えましたがその後滅亡しました』みたいに人類も滅亡するんじゃないかと思います」と言ったら、運転手さんが話し出しました。それからは一方的に目的地に着くまで喋りっぱなし。

先日ブログで取り上げた中村哲さんの記事の中に「レミングの群れの行進」という言葉が出ています。私は最近、人類も、今、レミングみたいに死に向かって行進していて誰も止められなくなるのではないかと思うことがあります。それで日頃考えていることが何かのきっかけで出たのだと思うのですが、それがこのドライバーさんの考えと一致したらしくて、あとはまくしたてられました。

要約すると、「人類は滅びますよ、それは決まってるんです。人類は滅びるけれど、地球は滅びません。地球は存在し続けます。人類だけが滅びるんです。その人類が地球の環境がどうのこうのと言うこと自体がおこがましい」と。虚無的というか、話のスケールが大きすぎるというか、後ろの座席でう~~ん、母の大変な時に落ち着いて聞ける話じゃないな…なんて思ってる自分が居たり。

で、そろそろ病院も近いし、余り黙って聞いているのもと思って「でも人間が汚したものは人間がきれいにした方がいいんじゃないですか」と言ったら「うん、それは、そうです!」と返してくれました。この時の会話というか一方的なお話が今まで聞いた事のない話(こんな話もありました、AIに計算させると日本人の平均寿命はあと何年かすると100歳を超えるのだそうです)なので、母の危篤に駆け付けるという状況との違和感と共に強烈な印象として残っています。

◆駆け付けたとき、面会室で会った母はいつになく饒舌。死後の通夜の段取りや知らせたい人、葬儀に来て欲しい人などを私に伝えてからもいろんな話をしました。

「電話より手紙を書きなさい、字を書けば頭を使うから」と言って、一年以上過ごしたホームの生活を振り返って「楽しかった、カナダのSさんにお礼を言っておいて、Sさんのお母さんが入っているという話を聞いて決めたので良かったと伝えておいて」とも。そして、入院する少し前に私が届けた手編みのひざ掛けとジャッケットについても。ひざ掛けがとても暖かくて役に立った、あれは持って帰って使って、そしてお正月に着ようと思っていた白いジャッケットはあんたが着てくれたらいいから」と。

母が何度も訴えたのは、前日の夜中に身体拘束されたことでした。手をベッドの手すりに縛り付けられて6時間、とても痛くて苦しかった。朝、やってきた看護師のTくんに「なんでこんなことするの?」と聞いたら酸素マスクを外すとダメだからということだったけど、それならその理由を説明して本人の了解を得ないとダメでしょうと言ったそうです。入院の際に家族にも了承のサインを求められました。父の時にもありましたので当然のことだろうとあんまり考えもしないで署名しましたが、本人説明なしだったんだ‥‥と思いました。きっと高齢者で意識も定かで無い人に対しての拘束なので、説明することなく拘束するのが普通だったのかもしれません。母の場合は人一倍自立心が旺盛で意識もはっきりしていますので、理由も説明されずの身体拘束は、痛くて苦しいうえに恐怖心や屈辱感で相当傷ついたのだと思います。従弟や夫にも何度も訴えていました。

従弟が来たら、今までの経過を話して、2,3年前に結婚した下の娘が住んでいるのはこの辺じゃないのと言って驚かせていました。また、駆け付けた夫を一目見た母は手を合わせて拝みました。「お世話をかけたね今までありがとう」という意味に受け止めました。そして従弟と夫を待っている間、私には「迷惑かけたね」と。

私たち3人が別れを告げると、母は慌てて市役所へ行って死亡診断書を貰ってこないと私は行けないと言い出しました。やはり、少し錯乱しているようでした。

◆翌日の16日は、前日連絡した妹がお昼過ぎに新大阪駅到着です。この日は今年最後のお茶のお稽古日でした。お昼前に頼まれていた手作りの月謝袋と準備していた3個のエビ煎餅の小箱とお月謝を届けに出かけました。先生に事情を伝えて「今日はこれから妹が来るので迎えに行きます。でも又持ち直すかもしれませんが」と言ったら、先生がすかさず「そう、うちもそうだったから、そういうこともあるよ」と言われました。

先生のお母さんは今年8月に105歳で亡くなられましたが、ホームから救急車で運ばれた病院から転院を繰り返して3つ目の病院で亡くなられたと聞きました。母の5つ年長の母が尊敬する先輩さんなので心配でしたが、亡くなられたことを知らせたら「私はそんなに長く生きたくない」という返事でした。もうこの頃から母の関心は命をどう終わるかに集中していたようです。

妹が面会に行った時、母は酸素マスクをしながらも息苦しい様子でほとんど目が開かない状態でした。私が聴こえる方の耳元で大きな声で妹の名前を告げたら目を開けましたので妹と代わりました。妹が名前を言うと目をしっかり開けて「ありがとう」と一言。

◆翌日の17日は、一泊した妹とお昼ごろ千里中央に到着した従兄の二人が加わって面会。同じように苦しい呼吸でやっと目を開けて「ありがとう」だけでした。この従兄は父が入院しているときはリュックに収穫したばかりのお米を背負ってお見舞いに来てくれたり、高卒後の1年を大阪で過ごして母が世話をしたりしていましたので私も是非会ってほしい人でした。この時は、確実に死が近づいている、あと2,3日と思っていました。

20日、面会に行った時、少し良くなったと言われ、母は話が出来るようになっていました。先生が来られて3回目に変えた抗生物質が効き出したと言われ、「100歳で十分生きたから楽にしてほしいと言っておられますが、皆さん、そう言うんですよ」。私が「見ている方も辛いですし」と言うと、先生は「本人さんが一番苦しいんですが、見てる方も苦しいので楽にしてやってほしいと思うのもよく分かります。しかし、病院は治療する所ですので治すための努力をします。こういう時、行くのは病院ではないです。そういう場合どうするのかホームの方たちとよく話し合うことが大事です」と言われました。なるほど、そういうことか…と思いました。延命治療については聞かれた時に「しないでください、本人の意志でもあるので」と伝えてありますが、治療と延命の境界は素人には分りません。ホームでは、何かあれば専属の医者を呼び、その医者に救急車を呼びなさいと言われると、病院を探して入院ということになって、治療を受けることになります。今回は、抗生物質が効いて肺炎は収まりつつあるようですが、食事が自力で出来るほど回復できるかは分からないと24日の電話で。

次回があるとすれば、ホームで看取りまでやってもらえるか、終末医療のある病院へ、そこもダメなら家に帰って訪問看護を頼んで・・・ということなのか・・・とにかくホームのケアマネさんに相談しなければと思いました。それにしても、とても丁寧な説明を受けて少しずついろんなことが分かってきました。根気よく説明してくださるN医師に感謝しています。

◆今回のことで思い出した言葉があります。上の子どもが小学1年生、下の子が幼稚園の時、私たちはJRと阪急の六甲道駅の中間あたりに住んでいました。その頃、夕飯の支度をしながら私はラジオを聞いていました。そこで知った言葉ですが、「人生は(トータルして幸、不幸は)公平である」というのでした。母を見ていてそう思います。頭や意識がハッキリしていて良いこともあれば、生死を意識したり、苦痛を意識することも人一倍鮮明でとても可哀そうです。認知症になるのを怖がって私たちにも”昭和生まれでもなるのよ”と注意されました(どうすればいいのかはわからないし)。でも、良いことがあれば悪いこともあるし、悪いことがあれば良いこともある。「人生、公平」、そう思えば、これからの老後?なるようになると思って生きていけそうです。