◎11日付の朝日新聞の『耕論』(オピニオン)頁の記事が気になって残していました。つい最近、ツィッターでこの記事に触れているのを見つけました。朝日デジタルがで取り上げていれば、書き移しの手間が省けると思ったのですが、残念、有料記事でした。
守真弓
@mori_m4
・·蟻川恒正氏↓
「横畠発言の問題の本質は、憲法の解釈をその職掌の中心に置く内閣法制局の長官が、国会の行政監督機能についての憲法解釈を間違えた点にある」「内閣法制局長官が、憲法解釈という内閣法制局の職掌のど真ん中で、誤った憲法解釈を開陳したと見るべきである」
◎3月6日の国会で横畠内閣法制局長官がニヤニヤ顔で答弁する姿を覚えておられるでしょうか? 席についてもニヤニヤが収まらないという横畠氏でした。ついにこういう日が・・・やはりこういうことに・・・と思った方も多かったのでは。安倍首相の再登場で、危険な予感がしたのは、集団的自衛権容認派の小松一郎氏を無理やりに内閣法制局長官にした時でした。NHKの会長を籾井氏にした時も同じでした。それまでのやり方や民主的手続きを破壊してでも、自分の言いなりになる人を組織のトップにつけて、思い通りの政治を貫く。そうなった時、人も組織も変質する。それが、ニヤつく横畠氏であり、蟻川氏が言う『内閣法制局の変質』だと思います。
それでは、以下、全文書き移しです:
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朝日新聞4月11日(木)
憲法季評
3月6日の参議院予算委員会で、立憲民主党会派の小西洋之議員は、安倍首相の答弁姿勢を批判したうえで、国会議員が行う質問は国会の内閣に対する監督機能の表れであることの確認を横畠祐介内閣法制局長官に求めた。
横畠氏は、国会が一定の「監督的な機能」を有することは認めつつも、「このような場で声を荒げて発言するようなことまで含むとは考えておりません」と答弁した。
野党側の反発を受け、横畠氏は、直ちに、「委員会において判断すべき事柄について(「声を荒げて」と)評価的なことを申し上げたことは越権」であったとして発言を撤回した。
横畠氏の発言の問題点はどこにあるのか。野党議員のみならず与党議員からも「思い上がり」を指摘する声が聞かれたように、「行政府にある者」が国会議員の議場での発言を揶揄するような発言をしたことが問題であることはもちろんである。だが、横畠発言の問題の本質は、それとは別のところにあると私は考える。
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横畠発言の問題の本質は、憲法の解釈をその職掌の中心に置く内閣法制局の長官が、国会の行政監督機能についての憲法解釈を間違えた点にある。横畠氏は、反発を受けてすぐに発言を撤回したが、問題の本質にまだ気づいていなかったようである。横畠氏は、「声を荒げ」た議員の発言が許されるか否かは、それぞれの委員会が判断することであり、「行政府にある者」が「評価的なこと」を言うのは「越権」であると言う。
けれども、その撤回の言葉の背後には、そもそも「声を荒げ」た発言は国会の行政監督機能の埒外であるという思い込みと、国会の行政監督機能の担い手は個々の議員ではないという思い込み(横畠氏は発言を撤回するに際して「国会の監督権といいますのは、議員であり委員会、組織としての監督権でございまして」と延べている)とが、透けて見える。
だが、議員が「声を荒げ」るか否かは、国会の行政監督機能の範囲を画する基準ではなく、また個々の議員は、国会の行政監督機能の重要な担い手である。事態は、横畠氏が、法的意見を述べるという本来の職責は果たした上で、ただそれに付随して述べた政治的(に中立でない)発言が職責を逸脱した、というような生易しいものではない。内閣法制局長官が、憲法解釈という内閣法制局の職掌のど真ん中で、誤った憲法解釈を開陳したと見るべきである。
横畠氏がその解釈を誤ったのは、憲法43条1項である。国民主権(憲法1条)の下での統治機構の中核をなす定めともいえる同条項は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定める。「組織」としての国会、各議員、委員会以前に、一人一人の国会議員が「全国民」の代表なのである。
とはいえ、法解釈の高度な専門家である内閣法制局長官が、かくも基本的な憲法条項の意味を理解せずに発言したとは考えにくい。おそらくは、現政権に対し常に厳しい姿勢で詰め寄る小西議員に一泡吹かせようとして、勇み足をしたのだろう。
けれども、政権の意向にあわせようとして、学術的知見を軽んじ、憲法解釈を誤る、というこの発言成り立ちは、安保関連法案の国会審議の過程で、内閣法制局が、政権に沿おうとするあまり、学説上の議論の蓄積のみならず内閣法制局自身の先例をも度外視して、集団的自衛権の行使を容認した経緯と同型である。
集団的自衛権の行使を違憲とした内閣法制局の1972年の見解にアクロバティックな解釈を施し、同見解から逆に集団的自衛権の行使容認を導く独自の憲法9条解釈を語ったのが、ほかならぬ横畠氏である。
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ここに見てとれるのは、内閣法制局の変質である。内閣法制局は、内閣のために憲法をはじめとする法的意見を述べることを職掌とする内閣の補佐機関であり、内閣から独立した機関ではない。けれども、その憲法解釈は、学術的専門性に裏打ちされたものとして歴代の首相によって尊重され、歴代内閣は、内閣法制局が違憲の指摘をした時に入る、自己の推進しようとする政策を断念した。これは、日本の立憲政治の知恵である。内閣は憲法に従う義務を負うが(憲法99条参照)、自分が従う憲法の意味を自分で決められるとしたら、憲法は絵に描いた餅にすぎなくなるからである。
この自己拘束を振り払ったのが、それまでの人事慣行を破って、内閣法制局での勤務経験のない集団的自衛権行使容認派の小松一郎氏を長官に起用した第2次安倍内閣である。
横畠発言は、内閣法制局が歴代内閣が運用上一定の自律性を認めてきた同名の機関とは別のものになったのではないかという、安保関連法案審議の際に人々の脳裏に去来した疑いを確信に変える重大なものである。
元衆議院議長の自民党・伊吹文明氏は、横畠発言を、「安倍晋三の配下にいる人間が国会議員に対して」「間違っても言っちゃいけない」ことだと言って批判した。伊吹氏が用いた「配下」というショッキングな言葉は、横畠発言の問題性が、内閣法制局長官を省の「配下」のごとき者にしてしまった今日の日本政治の統治の仕組みの問題性であることを、身も蓋もなく、あぶり出している。
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