(「本日「最低賃金上げろデモ」、世田谷区で「原発ゼロ」可決、映画「新聞記者」ほかアレコレ」に次いで、 2つ目です)
74年前、20万人の戦死者を出したといわれる沖縄戦の最後の激戦地・摩文仁の丘には戦没者慰霊の碑が立ち並びます。でも、今の日本、沖縄の犠牲について、本当に反省しているのでしょうか。一部の地域住民を犠牲にして生き延びようという差別意識は克服できたのでしょうか。とても、出来たといえる状況ではありませんし、今なお、同じ意識で政治が行われることを、止めることもできていない・・・本当に残念です。
山崎 雅弘 Retweeted
布施祐仁 @yujinfuse 6月23日
今日6月23日は沖縄戦慰霊の日です。この動画を観て、沖縄戦がいかに凄まじい戦闘だったのかを再認識しました。いま日米で中国に対抗する「列島線防衛」といったことが議論されていますが、沖縄を再び戦場にするようなことは絶対にあってはなりません。全戦没者のご冥福と恒久平和を祈り、黙祷します。
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琉球新報 @ryukyushimpo 6月23日
◆摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」を背景に歌が流れます:
山崎正弘 @mas__yamazaki 6月23日
今日、6月23日は「沖縄 慰霊の日(1945年に組織的防衛が終了した日)」。あさっての6月25日は、朝鮮戦争の勃発した日(1950年)。
朝鮮戦争は、いまだ「休戦」状態で、終戦には至っていない。では沖縄は、本当に完全な「終戦」を迎えて戦争から解放されたと言えるだろうか?
◆あの写真の“震える少女”は私と名乗りを上げたのは:
山崎 雅弘 Retweeted
琉球新報 @ryukyushimpo 6月23日
「震える少女」は私 米軍撮影の沖縄戦記録映像 81歳の女性が名乗り 「初めて見る米兵怖かった」
2019年6月23日 06:00
米兵を前に身を震わせる少女―。米軍が撮影した沖縄戦の記録映像に収められ、沖縄戦を取り上げた映像作品でもたびたび映し出される少女について、浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=が22日までに「これは私だ」と名乗り出た。当時、高嶺村大里(現在の糸満市大里)にいたという浦崎さんは本紙の取材に「初めて見るアメリカーの青い目が怖かった」と証言。終戦以来74年ぶりに米兵と遭遇した場所を訪れ、家族4人を失った過酷な戦争体験を振り返った。
◆「沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)の兵士に妻子と共に殺された」と語るのは、仲村さんに「戦争は終わったよ」と声をかけられて命を助けられた住民:
山崎雅弘
@mas__yamazaki
「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺(琉球新報)
「【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。