芦原池の沼地とケアマネさんの引継ぎ

昨日の広島平和記念式典での広島市長の「平和宣言」、今年は2年前に国連で採択された核兵器禁止条約についても政府に署名・批准を促しました。miyotyaさんが朝のテレビで中継された画面のテロップから全文を書き起こされています:

一方、安倍首相は「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め・・・」と。自らの立場を明らかにしないで一体どんな橋渡しをするというのでしょう。唯一の被爆国の首相として恥ずかしくないのかと今年も思います。

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◎先週の金曜日、母の訪問看護師さんが来られる日、追加の処方箋が出たので薬局へ向かう途中芦原池公園を通り抜けることに。池の傍の大木の小道を挟んで東側には背の高い葦が茂る湿地というか沼があります。そのすぐそばが中(なか)幼稚園です。芦原池が人工的な池なのに比べると、この芦原の湿地は今どきこの辺りでは珍しい自然のままのいわば放置された沼。勿体ないといえば勿体ないですが、私はこの景色が大好きでした。

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それが、夫が言うには、南側から埋め立て工事が始まっていると。それで、この日は本当かどうか確かめたかったのですが・・・

北側は、台風のため、柿の木やほかの木々が倒れたままだったのが、途中から機械で切断されている様子。葦はびっしりと丈高く茂って風にそよいでいます。

幼稚園の建物の向こうに団地の給水塔ものぞいて、幼稚園前の通りのイチョウ並木が見えて、私のお気に入りの景色がまだ残っています。

ところが、南側の一角は土がむき出し。やはり工事は始まっていたのです。看板が出ていました。あぁ、この景色も、もう、見納めかと思うと・・・

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箕面から西小路、牧落にかけて農業用水の溜池が続いていた中学時代のあの懐かしい風景はいよいよ消えてしまいそうです。芦原池、唐池、曲池、当対池と名残の池は残っていますが、里に在って人手の入らない沼地はこれが最後のようです。ついでに、団地の周りの小道を通って帰ることに。栗の花を6月に見たあの小道です。

◎前日の1日の木曜日は、2時からケアマネジャーさんの引継ぎでお二人の訪問がある日でした。3月に社協のKさんが定年で辞めることになったとご挨拶に見えて、4月、新しいHさんに交代したのは母が脊柱管狭窄症で入院中でした。退院を控えて在宅でのサービスの相談などで初めて電話でお話しするようになり、5月20日の退院後、我が家で初めてお目にかかりました。若くて、女優の清原果耶さんを少し大柄にした感じで、背が高くお洒落で明るいお嬢さんです。電話でお話ししててもテキパキと気持ちがよい。

母は退院後、ヨガと俳句をやめるので、近くのリハビリデイサービスに週一回でも行ければよいと話していたら、初回の日に即決めて見学に行く手配まで。これには母が拒否反応。勝手に決めてもらったら困るという母の言い分。まだ退院したばかりでフラフラしているのに、とても外出して1日~半日を他所で過ごすなんてことは無理、無理と言います。私としては、家族以外の者と話す機会がないので、リハビリ兼ねた施設に出かけるのは良いのでは・・・と母とも入院中に話していたのに、と思わないでもなかったのですが、確かに、チョット時期尚早でもあるので、私からもお断りすることに。それからは、じっくり母の様子を見てケアプランを立ててもらえました。

初回の時に、母の動きを見て、風呂場とトイレの間の手すりの設置と、脱衣場のツッパリのポールはリースより買取で取り付けた方が安くて安全だといわれて、すぐ2か所の工事の手配もして下さって大変助かりました。なかなかしっかりした方だと思っていたら、2週間ほど前に電話があり、辞めることになったので・・・と言われ、寿退職ですか?と聞いたら、違うんですと仰って、次のケアマネさんはKさんにと。私の「Kさん、お願いできれば嬉しいですが、定年で辞められたのでは?」に、「民間に変わって同じ仕事をされていますので」ということでした。

そして、当日、2時きっかり、隣の実家のベルが。お二人が見えました。Kさんは父が老健を出て家に戻った時からお世話になっていました。昨年9月の葬儀の朝、出勤前に、棺の中の父にお別れを言う為わざわざ葬儀場へ訪ねて来られました。写真が好きで、月代わりに玄関の写真立ての写真を母が変えているのをいつも関心をもって鑑賞してくださっていました。リハビリでお世話になっている施設で、父の写真を飾りたいと言われた時も、Kさんが選んでくださいました。抽象的な漁網の写真を選ばれたのでヘェーと感心したことがあります。そのKさん、定年後、1か月だけ家にいて、今は介護用品を扱う総合メディカル所属のケアマネさんだそうです。

Kさんは、4月から担当になったHさんから電話があって、お願いしますと自分からも担当を願い出たと言われました。3月まで母とも月一回、きっちり一時間話して、今日も勉強させていただきましたと言って玄関を後にされます。母の勧めで3年ほど前からヨガも始め、今は週二回に増やして続けているとか。母の入院を知って驚いたとも。

さて、母がHさんにストレートに「何で辞めはるの?」と。「結婚ではありません。もう一度勉強がしたくなって」という理由でした。Hさんは、保健師と看護師と助産師の資格があって、以前は産科の医院に勤めていたそうです。母が「そんなら、おばあさんのとこへきてハンコもらうだけの仕事なんかしてたら勿体ない」と。Hさんと初対面の日に母は「若いわね~平成生まれ?」と訊いて「いえ~平成じゃないんです」「じゃ昭和の終わりね」ということで、Hさんは30代前半かな。Kさんは今年定年で再就職の65歳。私が今年後期高齢者の75歳、母が97歳。この4世代の女同士、亡き父の話題も出たりで、まる1時間おしゃべりしました。

なんといっても、Hさんの、これからまた乳腺炎とか母乳の出をよくすることとか、お母さんのお手伝いをしたいので民間のそちら方面の学校へ行くのだといういう希望に満ちた溌溂とした若さが本当に眩しいくらい。残り3人のおばさんやおばあさんは応援団というところ。みんなで「頑張ってね」と言った後、母がすかさず「いい人も見つけなさいね」、私が「自分のお産も経験しなくちゃね」と念押し。引継ぎの書類に名前とハンコを押して、ちょうど1時間でお別れでした。

夕食時も、彼女なら病院でも産院でも働ける、社協の仕事じゃ物足りなくなったのねと母。 若い人は見ているだけでもいいですね。65歳のKさんも、高齢者訪問の仕事が楽しそう。 75歳の私、何かできること?なんて欲張りなことを考えてみたりしました。