映画「Fukushima50」の『危険性』とフレディ・M・ムーラー特集「山(映画)三作品」

 山崎 雅弘 @mas__yamazaki

テレビ局が全然宣伝させてくれなくても、良い作品や良い演技が評価される。映画界も一般の人々も、良い作品や良い演技を評価する力をまだ持っている。

作品で描かれた内容も含め、日本社会における問題を浮き彫りにしている。

ともあれ、トリプル受賞おめでとうございます。

 

リツィート

映画「新聞記者」@shimbunkisha · 3月6日
#新聞記者 が第43回日本アカデミー賞で最優秀主演女優賞、最優秀主演男優賞、そして最優秀作品賞をトリプル受賞

◇昨日のブログは日本アカデミー賞藤井道人監督の「新聞記者」が最優秀作品賞と最優秀女優賞・男優賞の三冠を達成したという朗報を取り上げましたが、今日は同じ映画でもこんな国策映画まがいの内容の映画が作られたということとそれに対する批判の記事を取り上げます。

山崎 雅弘さんがリツイート

 平野啓一郎 @hiranok 3月7日

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僕はこの映画は見てないし、見ませんが、見る人は事前に読んだ方がいいレビューでしょう。その上で、個々の映画の評価はあるでしょうが。 / 映画『Fukushima 50』はなぜこんな「事実の加工」をしたのか?(中川 右介) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

🔲先月の11日、本場アメリカのアカデミー賞作品賞を受賞した韓国映画「パラサイト⁻地下室の家族」を近くの映画館で観たとき、ブログタイトルの映画「Fukushima50」の予告編を見ました。嫌な描き方にならないかと思っていた予感が当たりました。吉田所長を英雄視する見方は当時からありましたが、吉田氏自身は、東電の会議で津波から守る防潮堤の高さを低く抑えたことをとても反省して罪の意識を持っておられ、当時の関西の夕方の番組ではそのことを率直に誤りだったと認めて話しておられました。それが、命がけの英雄たちのおかげで全ては守られたとする原発映画が9年後の今、製作された。それも渡辺謙吉田昌郎所長)と佐藤浩市(1.2号機当直長)という日本映画を代表するような俳優たちが出演して・・・と家に帰ってチラシを見ながら嫌な気持ちになりました。今月に入って、朝日新聞の3月4日の「終わりと始まり」というコラムで映画の内容を池澤夏樹氏が批判する記事を書いておられます。

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 津波から四日後に最も危険な状態を脱するまでの現場の人々の悪戦苦闘がこの映画の主軸である。闘う相手は、まずは原子炉。・・・・

 敵は炉だけではない。東電本店は現場を知らぬまま居丈高に命令を突き付ける。情報不足にいら立つ首相は乗り込んで来る。

 吉田はじめ全員が怒鳴ったり、叫んだり、受話器をたたきつけたり、懇願したり、泣いたり、放心したりする。役者がうまいこともあるけれど、実際こうだったのだろうと思わせるリアリティーがある。

 五十人どころか協力会社・消防・自衛隊を含めて何百人もいた現場の人たちが、身の危険を承知で炉を守ろうと動いた。あえて見えない状況の中へ入っていった。

 エンターテイメントであるから首相が戯画化されるのはいいけれども、本当に糾弾されるべきは津波対策を怠った東電幹部と電力業界、癒着してきた自民党長期政権だ。それともそんなことを持ち出すと観客は白けるのか。あの五日の間に限定された映画にそれを求めるのは無理な話か。

 はらはらしながらな見終わった後に、2号炉の内圧が抜けて最悪のシナリオが回避された、その理由がわからないというもやもや感が残る。映画ではそこの説明がない。

◆続きを写真で:

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🔲昨日の「shuueiのメモ」さんがこの映画の危険性を具体的に指摘した記事を取り上げておられました。 筆者は原発事故の悲劇を描いた映画「朝日のあたる家」を監督した太田隆文氏です。事実ではないデマに基づいた映画になっているという:

 ◆少し端折って途中から一部引用です:

吉田所長も東電も実名で出てくる。ただ、あるべき事実で描かれていないものがある。ここは難しい。その事実を描くのも描かないのも作家の選択。だが、その事実を描かないことで意味が違ってしまうことがあるその代表が菅直人総理ヒットラーを悪役として描くために、エキセントリックな部分ばかりを見せるように、この映画の菅直人も怒ってばかりいる(確か、彼だけ実名ではなく総理という表現だったはず)

また、彼が福1に乗り込んだことでベントが遅れたというのは、当時の野党が流したデマのはずだが、そのまま描いている政府が「海水を使うな」と指示したという話も、本当は東電の判断。炉心が塩水で使えなくなるのを恐れて止めたというのが真相と聞く。なのに政府からの指示と描いている。つまり、これらは当時言われたこと。のちにデマだとわかったことをベースにして、共に菅総理。あるいは民主党の失態だと指摘している。が、どちらも事実ではない。なぜ、デマをそのまま描くのか?

映画では官邸が邪魔ばかり、東電本社は翻弄。現場は大混乱という描き方。だが、当時、東電は官邸に情報を上げず、そのことで総理は苛立ち、現場に乗り込んだ。その辺の背景も描かれていない。ただ、吉田所長を始めてとする職員の活躍は映画の通りで、吉田所長は信頼のできるボスであったことは、僕も元職員に取材して聞いている。

(以下省略) 

 🔲「東久留米日記」さんが事故当時首相だった菅直人氏の記事も紹介されています:

◆同じく「東久留米日記」さんが取り上げているツィッターから:

titioo

@SmallOne_jp 3月8日

糸井重里のこれ、原発は、万が一の時にいのちを捧げなくてはならない発電システムだと言うことを世に知らしめてるじゃんね

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 🔲「shuueiのメモ」さんが別の映画の記事を取り上げておられます。

こちらは原発とは対極の映画です: 

◆一部を引用です:

2月22日から開催されるフレディ・M・ムーラーの特集上映「マウンテン・トリロジー」。ヌーボー・シネマ・スイスの旗手として知られる名匠で、1985年にロカルノ国際映画祭で金豹賞(グランプリ)を獲得し、世界にムーラーの名を轟かせた「山の焚火」デジタルリマスター版と、「我ら山人たち」(74)、「緑の山」(90)の3作品が上映される。

 

--「緑の山」には非常に普遍的で、現代社会において、とても重要なテーマが描かれています。あなたはこの映画を作った時に、現代社会を予見していたのでしょうか?
この映画の中心テーマは、人類の歴史と同じくらい長い、未来への責任です。この責任は、世界中で急速かつグローバルにネットワーク化された技術開発により、最近、非常に普遍的な話題となっています。私が1990年に未来を予見したかどうかという問題は、未来を見通せたかという言葉に置き換える必要があります。(後略)


--日本とスイスで似ていると思うのはどんなところでしょうか?
調和を願う気持ち、完璧を愛する心、勤勉なところなどです。

--日本の観客へのメッセージをお願いします。
「山の焚火」「我ら山人たち」「緑の山」、これらの山三部作の映画は、文字通り「人間の条件」について表現しています。だからこそ、この3作には、時間を超越した次元が未だ眠っているのだと思います。そして、スイスの都市部や国境をはるかに越えた映画館で上映されたとき、これらの映画は、概してセンセーションとして、またその上映される場所の社会が持つ現在と過去へのエキサイティングな発見の旅として、観客の皆さんに体験されることになります。
私の映画監督としてのキャリアは日本映画に大きく影響されたので、この映画をご覧になった日本の観客の皆さんが、私の日本との映画文化的なつながりを感じ、評価してくれることを願っています。

 

フレディ・M・ムーラー特集「マウンテン・トリロジー」は、2月22日からユーロスペースほか全国順次公開。

PS ◆◆◆記事トップにも挿入しましたが、現代ビジネスの記事が出ていましたので: