『たちどまって考える』(ヤマザキマリ・著 中央公論新社)より  

たちどまったタイミングだからこそ

2020年の初頭以来、新型コロナウイルス関連のニュースに触れる日々がすっかり私たちの日常になりましたが、この記事を執筆している2020年の12月末現在、日本全国での感染者は20万人を超え、イギリスで見つかった変異型のウイルスに感染した日本への渡航者が見つかるなど、気を緩めることは全く許されません。年末年始をどう過ごすべきか、家族と集まるべきか諦めるべきか、といった内容が報道されていますが、私はイタリアの家族と会えないまま、日本での滞在が1年を超えてしまいました。これほど長く日本にいたのは、実に20年ぶりのことです。

まず自分自身について知るべき

パンデミックという地球レベルでの人類における危機的現象と、どう折り合いをつけていくべきか。試行錯誤をいまだに続けている世界ですが、例えば日本政府が取った対策は、我々日本人にとって本当に相応しい対応だったのかどうかを考えてしまいます。明治維新以来西洋式の社会構造を模索してきた日本ですが、今回のパンデミックへの対応や人々の意識を見ていると、日本人には日本独特の現状への捉え方や解釈があるということにも気がつかされました。社会の危機に向き合った時、政府からの指示を受ける前に、私たちはまず自分自身について、そして自分たちのおかれている社会について、自らの力で、俯瞰で分析する能力を身につけるべきかもしれません。

自国の欠点を俯瞰できるイタリアの成熟

日本ではなぜ自国礼讃の番組が多いのか

片や日本のテレビや書籍といったメディアでは、一時期ほどでもないにせよ、日本の欠点を確認するよりも、この国の素晴らしさに特化した企画が散見しています。こういう比較を持ち出すと「ヤマザキは出羽の守」などと捉える人がいますが、そもそも根本的な価値観や倫理観の違う国どうしを比べて、優劣など付けられるわけがありません。あくまで、日本という国ではなぜ自分たちの国への批判を堂々と口にするのがタブーなのか、それがどうも気になった、という話です。

考えることを面倒くさがってはいけない(全文)

こうして思いがけなく家で過ごす時間が増え、普段ならたいして気にも留めない周辺を見回すようになると、そこには、社会や政府などに感じた「もやもや」を解明するヒントが転がっていたし、突然の対策を強いられた結果、見なくてもよかったものにまで意識が向くようになりました。

たとえば「アベノマスク」から「Go to トラベル」まで、そこに費やされた費用など道理はわかっても、なんだか納得のいかない政策や提案だと感じた人たちはかなりいるのではないでしょうか延期を経て今年開催が予定されているオリンピックにしても、この運動の祭典の本質的な意味はどこにあるのか、どうしてウイルスの猛威に人々が倒れていく中で実施に執着する人たちがいるのか、または実施して欲しいと考える人がいるのか、そんなこともできれば自分の頭で考えてみるべきなのです

考えるのは面倒かもしれない。でも、その納得のいかなさの要因を、ネットやテレビやSNSで誰かが発信している言葉からではなく、自分の考えのなかから見つけるべきなのです。

そもそも人間は胃袋だけ満たしていけばいいという生き物ではありません、メンタルを思考や考察で常に鍛えていなければたちまち愚鈍化し、今以上に地球上で危険な野蛮生物になってしまう可能性だってあるのです

自分の頭で考えるそれ次第でパンデミック最中、そしてパンデミック後の私たちの生き方、社会の変化の質は少なからず変化していくように私は思うのです。

 

引用元:ヤマザキマリ「考えることを面倒くさがってはいけない」|教養|婦人公論.jp (fujinkoron.jp)

 

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