◎昨日の家族のLINEのやり取りですが、我が家は東京の長男、沖縄の次男、大阪の私達と家族全員が緊急事態宣言下にあり、夫の実家の石川県も蔓延防止等重点措置が適用されることになりました。昨夜は石川県の義弟が電話で息子たちが大丈夫かと心配してくれたらしく夫が返事して、長男は職場でのワクチン2回目接種が終わったと報告、あちらの東京で働いている息子は未だとのこと。夫が「東京大変なのにオリンピックよくやるな」に義弟は「ほんとにそうだよ、安倍は敵前逃亡するし」と言ってたとか。国のリーダーがまともではありませんので秋の総選挙で変えないと日本は本当にダメになってしまいますね。
🔲「途中で引き返せない」は「間違いを認められない」と同じ。間違いを認めたらどうなるのか・・・一旦間違いを認めたらそれで終わるという社会であってはいけない、間違いを認めたらやり直せる社会でないと…政治の世界でも同じことだと言えなければ「絶対認めない」になる。理屈は分かりますが、まず自分の間違いを認めるほどの人間的な度量がある人を選んでおかないとね:
🔲首相の記者会見での記者たちも、この学生を見習って・・・
🔲「安倍氏不起訴不当」。もう一度きちんと調べ直してくれるのか、それとも:
◎このコロナ禍の中で五輪開催強行を果たした現政府とIOC。それに参加する選手たちとそれをテレビを通して見るスポーツファンの複雑な思い。首相の思惑、五輪が開催され金メダルラッシュがつづけばコロナを忘れて支持率がアップするということにはなりそうもないという記事がすでに出ています。強行することで却って平和の祭典「東京オリンピック」の化けの皮が剥がれたという見方もあります。その「欺瞞に満ちた東京五輪」に出場している選手、見ているスポーツファンの思いと「楽しんでいる」責任について書かれた記事です。有料記事ですので、一部コピーで、つづきは書き移しで:
星野智幸さん(作家)
24日に行われたオリンピック(五輪)の女子サッカー、日本―イギリス戦のキックオフ直前、私はかたずをのんで画面を見守っていた。イギリスの選手たちが片ひざをつくのと同時に、日本の選手たちも片ひざをついた。ちょっと涙ぐみそうになった。
日本のスポーツで、選手が自分の意思で人種差別に抗議を表した瞬間だった。日本の選手たちはそれをとても自然な行動として示した。とうとう、日本の女子サッカーもここまで来たんだな、という感慨があった。その後の、両チームの魂のこもった試合展開まで含めて、特別なものを見たという気持ちの高ぶりがあった。
なぜ、この行為が重要かというと、人種差別をスルーしたら、サッカーの現場が差別の応酬になって、サッカーが成り立たなくなるからだ。自分たちが人生を賭けているサッカーを守るためには、人種差別への反対を人任せにするのではなく、選手が個人として意思表示することが鍵となる。そのことで、差別の対象になる選手もそうでない選手も、互いが味方なのだと思えるから。選手たち個人の信頼を失わないためにも大切なのだ。サッカーに政治を持ち込んでいるのではなく、サッカーを暴力から守る行為なのである。
常に、男子スポーツの標準から排除されてきた女子スポーツには、競技者個々人が信頼しあって自分たちを守っていく、という性格がある。特に女子サッカーはアメリカが中心となって、自分たちで決める、という意思をかなり自覚的に実践して、女子スポーツの文化をリードしてきた。
だから私は、女子サッカーこそが、今噴き出しているスポーツの負の側面を変えて、新しい力を体現してくれると信じており、長年なでしこリーグの応援を続けている。
それなのに、片ひざをつく場面を目にして感慨を覚えながら、一方で、その感慨が虚無に吸い込まれていくのも感じる。感銘は、たちまちのうちに後ろめたさと絶望に取って代わられる。
(これよりつづきは新聞からの書き移し)
朝日新聞(7月30日)
2020+1 思う
五輪が盗むスポーツの価値 そのとき選手は
(重なる部分省略。つづき)
差別に対して意思表示するその行為は、開催地日本の住民の意思を一顧だにせずに強行開催された五輪という舞台の上でなされているからだ。
新型コロナウィルスのデルタ株に怯えるワクチン未接種者が大半を占め、医療も逼迫の恐れがあり、医療従事者は1年半以上の緊張の持続の上にさらなる過労とストレスを強いられ、コロナ禍で貧困に陥って炊き出しに来る人たちは増え続けている中で、今は開催しないでほしいと思う大半の住民の気持ちを踏みにじって、五輪は開催された。
そんな暴力的なやり方で築かれた舞台の上で示される表現を、素直に受け取ることは難しい。多様性のあり方や不公正への批判や、自分信じる力や仲間を信じる力。選手の示すそれらの表現がどれも真摯で全身全霊のものであることを、スポーツファンの私は疑わない。しかし、そのようなスポーツの示す価値が、表されるそばから、「ほらね、五輪は素晴らしいだろ」とばかりに五輪の価値にすり替えられてしまうことに、スポーツを信じている私はひどく傷つき、怒り、苛立ち、消耗する。
五輪は、私たちのスポーツを信じる心を収奪し、自分たちの利益に変えてしまう。コロナ禍で強行開催された東京五輪は、化けの皮を剥ぎ取られて、そんな五輪の本質を露(あら)わにした。スポーツの持つ価値を奪って自分たちのものにし、たくさんの人を犠牲にする側面を隠すようにかぶせ、あたかも五輪だからこそ価値のあることが実現できたかのように見せる。五輪は常に、そのような横取りと粉飾を繰り返して成り立ってきたのだ。
日本や世界の観客たち、医療従事者たちが、五輪を素直に受け入れられないでいることは、誰よりも選手が敏感に感じているだろう。人々に見てもらうことが最大の存在理由であり、応援を力とする選手なのだから、その矛盾に心の中は引き裂かれていると思う。
だからこそ、よけい必死になって、スポーツの持つ価値、自分たちが競技することで与えられる力を示そうと努める。特に地元開催の日本の選手たちは、痛々しいまでに懸命だ。それは、差別の抗議行動と同様、自分たちの信じるスポーツを守ろうとする姿勢だ。
開幕前に「スポーツの価値が問われる」と語っていた、女子サッカーの岩淵真奈選手のカナダ戦やチリ戦でのプレーは、これまでとは別次元でチームのために無私となっていて、私はとても胸を打たれた。でもその姿は、強権的独裁的に五輪を開催して良かったのだという正当化に利用されてしまうのだ。そして、観客やファンと選手が分断される。
あくまでも競技の中で意思表示するしかない選手たちに、五輪という舞台作りを根本から批判することは難しいだろう。結局は排除されるだけだから。
でも、私が願うのは、現役中に難しいのであれば、せめて引退してから、スポーツファンにこんな苦しい思いをさせる五輪のあり方を変えるよう、勤めてほしいということ。多大な犠牲と不公正の上で成り立っている五輪に参加した選手たちには、それを変える責任があると思う。この欺瞞に満ちた五輪を支えてきた運営の責任者たちは、かつて栄光を誇った実績ある五輪アスリートたちばかりなのだ。ファンだった私はどれほど裏切られ、失望したことか。そんな惨めなありさまは、二度と見たくない。
苦渋に満ちた東京五輪を経験した選手たちなら、スポーツを掛け値なく信じられるものにするよう、ファンや観客と共にあってくれると期待している。そして私たちスポーツの力を知っているファンも、いっしょに最大限の努力をする準備は出来ている。
NNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNN 引用終わり