「外圧」の正体:「米国発『外圧』日本政府が手回し」と「『内圧』で鈍感社会変える」(朝日・「耕論」より)

◎手元に7月21日付の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」頁が残っています。日々のニュースに追われて出番がなく、いつまでも残っているので処分しようと思って、もう一度読み直したら、日本の外圧頼みについての論考で、処分するには勿体ないので8月中に文字に移して残しておこうと思って取りかかり始めました。

米国発 日本政府が手回し

猿田 佐世(さよ)さん 

シンクタンク「新外交イニシアティブ」(ND)代表

 

 東京五輪パラリンピックの開催について、菅義偉首相は6月のG7サミットで「全首脳から力強い支持を頂いていた」と言いました。注意しなければならないのは、このような海外の「お墨付き」は、日本の政治家や官僚たちが自分たちの政策・方針を推し進めるための常套手段だということです。

 今回も官僚が根回ししたのでしょう。日本が「安心安全に開催する」と強調すれば、目くじら立てて反対する外国の首脳はいない。それを「全首脳の支持」というのは一種の外圧利用です。こうした「日本政府製」の外圧の例は挙げればキリがありません。

 なお、外圧の圧倒的多数は「米国発」です。日本が時間とお金をかけて米国に働きかけ、「米国の意向」として発信されます。

 日本政府は、米国の有力なシンクタンクに多額の資金を提供しています。たとえば日本でよく知られる安全保障定提言の「アーミテージ報告書」を発行している米戦略国際問題研究所CSIS)のウェブサイトには、日本が毎年5500万円以上を寄付する最上位の寄付国と明記しています。

 こうしたシンクタンクの活動を通じ、米国の「知日派」が集団的自衛権の行使や、沖縄の米軍普天間飛行場辺野古移設などについて「支持する」と発言する。すると、日本のメディアが大きく報じ、日本政府も「米国も言っている」と日本の世論に訴える。私はこれを「ワシントンの拡声機効果」と呼んでいます。しかし、日本に届く「米国の声」は米国内の一部の声にすぎません。

 一方で、国際的な人権基準の実現のため、日本の市民団体などが作り出そうとする外圧もあります人種差別撤廃条約女子差別撤廃条約などが日本が批准した背景には、市民団体が国連などに働きかけ、国際社会の声を外圧としたことが影響しています。

 市民がつくる外圧も、日本政府製の外圧も、どちらも政策を実現する一つの手法です。しかし、前者は原理実現のために個々人が行った表現活動の結果であるのに対し、後者は国家権力が 多額の税金を使って行うものです。その外圧の生じる過程に日本政府が関わっていることは、一般の人はほとんど知りませんこれは到底、民主的手法とは言えません。外圧が生まれた背景を知らなければ、その外圧をどう捉えるべきか、国民は適切に判断できないでしょう。

 海外の情報を広く取り入れる姿勢は重要ですが、「なぜ今」「誰によって」その情報が届いたのか、その背景を吟味することが必要です。大切なのは、どの国の声であろうと、それを取り入れるべきか否かは、日本の私たちが自分の頭で考え、判断すべきことだということです。(聞き手・稲垣直人) 

◎次の中野剛志氏のはダイジェストで:

変革に必須? 解けぬ催眠

中野 剛志(たけし)さん  評論家

 

・「外圧」は、私が子どもの頃から使われていました。1980年代の貿易摩擦では、日本ん対米黒字減らしで、「日本は外圧がないと変われない」と言われたものです。さらに2000年代以降は、より自虐的に使われ始めます。TPP(環太平洋経済連携)への加入が議論されていた時、「外圧を使って日本を変えよう」とまで言った元官僚がいました。

 しかし、こうした認識は「自己催眠」のようなものです。外圧を受けてきたのは日本だけではありません。

・外圧を手放しに容認することは、国民主権の否定です。歴史を振り返っても、外圧を安易に許した国は早晩滅んでいます。

 では、今の日本はどうでしょう。戦後の冷戦下で、米国が日本を守ってくれる時代はとうに終わりました。

 なのに、日本はいまだに「外圧で良くなる」「米国が決めたことに付いていく」という外圧信仰が根深い。

 新型コロナ感染拡大で米国が日本への渡航禁止勧告を出した時、英BBC(電子版)は、こうしたgaiatsu(外圧)なしに日本は五輪を中止しないだろうと言われている、などと報じました。外圧信仰から抜けきれないという点で正しい認識でしょう。この自己催眠はもはや解けないのでは? 私はかなり悲観的です。(聞き手・稲垣直人)

◎最後は斎藤美奈子さん。外圧に弱いのに、国連の勧告を無視し続ける安倍政権をみていると、媚びへつらう相手と、傲岸不遜に無視する相手を選んでいますね。ですから、斎藤さんが「外圧」に見えるのは・・・と書いておられる個所に納得です。

「内圧」で鈍感社会変える

斉藤 美奈子さん 文芸評論家

 

 戦後間もない頃に文化人類学者のルース・ベネディクトが「菊と刀」で論じたのは、日本の特徴は「恥の文化」だという話でした。内なる神との対話を通じて善悪を判断する「罪の文化」とは違って、外の目を気にし、それを自らの行動規範にする文化が日本にはある、と。

 この考え方に立てば、日本は外圧を気にする国であるという見立ても確かに、もっともらしく見えてきます。

 でも、本当にそうかな、とも思います。日本って、人権やジェンダーといった面では驚くほど世界からの声に鈍感でしょ? 思わず「もうちょっと外圧を気にしろよ」と言いたくなってしまうほどに。

 死刑制度の継続に、夫婦同姓の強制、LGBTへの差別に、外国人の長期収容問題……。国連や国際社会から何度見直せと言われても全く変わろうとしない。その鈍感さこそが、私には不思議です

 外の目を気にしているように見える割に、他人の話に耳を貸さない。「外国からの規範の押し付けに屈するな」という声が出る。おそらく足りないのは、自省の作業でしょう。自らの制度や道徳基準とすり合わせたらどうなるか、の吟味が起きない。棚簿と民主主義の国だからなのかな、とも思うけれど。

 ジャーナリストの伊藤詩織さんが自らの性被害を訴えたとき、最初に反応したのは海外メディアでした。東京五輪の大会組織委員長だった森喜朗元首相の「わきまえている」女性発言も、強い批判は先ず海外から来ました。

 国内メディアの鈍感さこそを問題視すべきだと私は思います。何かが一見「外圧」に見えるのは、単に、ある問題の所在が国内で可視化されていなかったせいかもしれない、と思うからです。

 じっさい、性的嫌がらせに苦しむ人々も、性被害を告発できなくて絶望している人々も、日本にはそれ以前からいました。深刻な問題と認識してもらえず、被害に遭った個人がそれぞれ孤独な闘いを強いられる社会だったから、「みえていなかった」のです。

 セクハラという言葉が流行語になったのは今から約30年前でした。「ヘイトスピーチ」も「#MeToo」もそうですが、問題を可視化してくれるツールが海外にあって、それが国内に紹介されることは、「自分は孤独な闘いをしている」と思っていた人には「実は世界中で多くの人が闘っているんだ」という気づきと勇気を与えます。

 外圧だけでは社会は変わりませんそれに呼応する動きが内側に存在することで、社会は確実に変わっていく。

 内にある声を可視化して、共有していくこと「内圧」や「民圧」をきちんと社会に反映させる作業から始めて行けばいいのだと思います。

                     (聞き手 編集委員塩倉裕)