「“祈りの山”に墜ちたB-29〜戦後76年の慰霊〜」 - かんさい熱視線 - NHK
◎敗戦まじかの1945年6月、天川村の山上ヶ岳に墜落したB-29の搭乗員の亡くなった兵士に対しては墓標も立てて弔ったり、生きていた4人の兵士には、村人たちがとても人道的な対応をしておられたことを知って、何とも言えない思いです。鬼畜米英一辺倒ではない戦中を知って、なんだか心が安らぐ思いです。それでは後半です:
アメリカ人ジャーナリストが聞く
捕虜となった4人がどうなったか、カパララさんはその行方を記した資料を探すために東京にある民間団体を訪ねた。この神田にある団体は第2次世界大戦中に日本軍がとらえた連合軍捕虜について研究しています。
POW研究会・笹本妙子共同代表「大峰山を含めて大阪憲兵隊、或いは中部憲兵隊が関わった事件は、これだけあります」
ナレーション:団体の調査によると、日本で捕虜となった連合軍飛行士は全国でおよそ560人、その内大阪の中部憲兵隊の管轄下に置かれたのは57人、そのほとんどが当時定められていた軍の裁判を終えることなく処刑や虐殺によって亡くなっています。
「これが墓穴から出た飛行士の遺体です」
資料から大峰山で生き残った4人は終戦前、全員死亡していたことが分かりました。最初に寺に投降した二人は銃殺、もう一人の軍曹は青酸カリによる毒殺、ハート軍曹の死因は不明。
戦後の遺体の発掘調査で妻と交わした結婚指輪のイニシャルから身元が特定されました。
ハート軍曹の遺体が埋められたのは大阪天王寺区にある真田山旧陸軍基地でした。カパララさんは資料を元にその墓地の保存活動をしている小田康徳に案内を依頼しました。
小田康徳さん「ここは、日本陸軍の戦死したり病死したりした人の墓がずらっと並んでいるところ。「ハートは6番ですか」「多分一番右」「この辺りでしょうね」
N : 墓地の片隅の藪の中、ハート軍曹の遺体はここに埋められたとみられている。
小田さん「穴を開けて、この中に一人だけではなく、2人、3人、4人、5人と一緒に入れている。これは処理という感じ。人間として扱われていないと思いますよ」
「戦争がとても恐ろしい」「そうですね。どちらも地獄ですね、これ」
カパララさん「ハート軍曹たちがゴミのように捨てられていたことに胸が痛みます。しかし、塀の向こう側では大坂が完全に焼き尽くされ、どちらの側でも命が大切にされていませんでした。」
中央区のピースおおさか
N : あの空襲で家族を失った日本の人たちが、その思いを抱えて生きてきたのだ。
カパララさんは大阪の平和資料館で長年、戦争の語り部を務めてきた伊賀孝子(90)さんに話を聞くことにしました。
伊賀孝子さん「ここに入ってきたら焼夷弾がどんどん落ちてきた体験がハッと出てくる。あの時のことがパッと出てきますわね」
N : 伊賀さんは13歳の時、空襲に遭い、母と7歳だった弟を亡くした。
伊賀さん「弟は背中がもう焼けただれて、その背中を見て私がギャーと叫んだんですねー弟は防空頭巾も全部燃えて顔も焼けて、こんな膨れ上がってたんですね」
カパララさんは、ある場所に案内されました。9千人余りの空襲犠牲者の名前を浮き彫りにした銘板でした。
実は大阪の空襲で誰が亡くなったのか名前までは詳しく知らされていなかった。
伊賀さんは40年前から大阪中の寺を訪ね歩いて名簿を作ってきました。
それがきっかけとなり、この銘板が出来たのです。
伊賀さん「ここ、母、大島志よ。大島三郎。母と弟です」。
「生きてきた証として名前を残すべきだ、一人一人の歴史、生きてきた跡があるということやね。戦争はしてはならないということを亡くなった人が訴えているんですよ。」
N : 伊賀さんから託されたのは戦争を二度と繰り返さないでほしいという願いでした。
カパララさん「戦争を二度としないように、心から伝えたいと思います」
カパララさん「空襲を経験した人が、どれほどの傷を今も抱えているのか直接話を聞いて初めてわかりました。二度と戦争を起こさないように、自分も出来ることをしなければならないと思います」
N:2年がかりで調べてきた墜落の真相。
カパララさんはアメリカ兵の遺族を探し、明らかになった事実を伝えました。そこで知ったのは、彼らも又消えることのない傷の痛みを抱えてきた現実でした。
兄が戦死したジュリー・アイズリーさん(88)「”もう76年前の話だ”という人もいますが、それは違います。私たちは兄を失った喪失感と共に76年間を生きてきたのです。ようやく心に区切りをつけられそうです」
伯父が戦死したジャック・ビークロフトさん(64)「辛いことですが、(伯父が銃殺された)経緯は理解できます。アメリカは無差別に市民を空襲していたのだから。ただ伯父たちも命令を受ける立場でした。”ゆるし”について考える時かもしれません」。
奈良 天川村
B-29の墜落から76年、大峰山に向かうカパララさんの姿がありました。山をよく知る修験者と村の協力を得て墜落現場で慰霊を行うことにしたのです。
片道二日がかりの道のり。人がほとんど足を踏み入れることのない険しい谷を下りた先に、墜落現場があります。
「ここにもエンジンがあった」
そこにはあのB-29のもう一つのエンジンの残骸がありました。
「ギザギザの歯車がまだ残っている」
亡くなったアメリカ兵、空襲で命を絶たれた人たち
戦争の犠牲になった人たちを思い祈りを捧げます
奈良 大淀町
慰霊を終えたカパララさんが訪ねたのは地元の平和学習の集い。
ここで読み継がれている紙芝居、あのB-29の実話がもとになっています。
「火傷した皮膚は、剥がれて、うみのような汁が 流れているのや、」
「くすりもつけずに、かわいそうやな~、痛いやろうな~」
「まもなくすると、そのアメリカ兵は ジープに乗せられて走り去っていきました」
アメリカ兵が連れ去れて終わる紙芝居。
カパララさんはこの日、兵士たちのその後について地元の人たちに語りました。
「この4人は(生きて)アメリカに帰れませんでしたが、生きている間に色んな人に会ったと思います。吉野の人は特に優しかったらしい。けがをした(アメリカ人)を優しいお医者さんが手当をしてくれた」
こども「(B-29に)乗っている人は怖いと思ったけど、力を振り絞って生きていたのは凄いなと思った」
N : 戦争の悲劇は忘れてはいけない。カパララさんは取材したことを本にまとめ日米両国で伝えていきたいと考えています。
「私に戦争経験はありませんが、体験者と出会って、その思いを伝えることなら出来ると気が付きました。彼らが負った心の傷、平和への願いを少しでも伝えられれば私の使命を果たすことになると思います。」
N : 祈りの山に堕ちたB-29が残した戦争の爪痕、託された平和への願いも受け継がれていきます。
終