◎12月10日のNHK「かんさい熱視線」の番組、とても良い内容なので録画分から書き起こすことに。ほとんど完成という時にパソコントラブルで下書き消失。ガックリでした。が、何とか思い直して、その日のうちに半分、追いつきました。黒字タイトルは私が勝手につけました。
「“祈りの山”に墜ちたB-29〜戦後76年の慰霊〜」 - かんさい熱視線 - NHK
初回放送日: 2021年12月10日
終戦末期、奈良・大峯山に1機の米軍爆撃機B-29が墜落した。地元には墜落を生き延びた米兵の逸話が伝わる。謎に包まれた墜落の真相を解き明かすアメリカ人青年を追う。 修験道の聖地、大峯山にある奈良県天川村。この山深くに、終戦末期の昭和20年、大阪を空襲した1機のアメリカ軍爆撃機“B―29”が墜落した。地元では墜落から奇跡的に助かったアメリカ兵の逸話が今も語り継がれている。“祈りの山”に墜ちたB―29は私たちに何を伝えているのか。謎に包まれた墜落の真相と日米の犠牲者たちの思いに1人のアメリカ人ジャーナリストが迫る。
アメリカ人ジャーナリストが聞きとる
ディヴィド・カパララさんが初めて大峰山に堕ちたB-29の話を聞いたのは、2年前、取材で訪れた村の人からでした。
小林清孝さん(63)「山岳救助隊に入ってて、山を2時間くらい登ったところで
塊があった、エンジンみたいな。後で先輩に聞いたら戦時中のB-29の残骸やと」
カパララさん「初めて聞いたときは、すごいビックリした。
私の中で戦争と吉野の結びつきがなかった。
アメリカ人の私が戦争の話をするのはデリケートなことでしたが、
B-29のエンジンがあると聞いて、何があったのか知りたいと思った。」
ナレーション(N)「70年以上前の戦争に初めて向き合うことにしたカパララさん、村で取材を続けると、墜落の瞬間を目撃したという人がいました。
山谷敬男さん(89)さん「機銃掃射(の音)がバリバリとしてあっという間に山の中にみえなくなった」
N:平和だとばかり思っていた山村に刻まれた戦争の爪痕。
墜落したB-29の残骸が隣の天川村にあることが分かりました。
天川村村長 車谷重高さん「これがエンジン」
直径、およそ1.4メートル、重さ、およそ1.2トン
15年前、村が引き揚げて、展示した。
「この先に、プロペラやろうね、ピストンが18ある」
「村民からエンジンが落ちている、あげて(回収して)欲しいとお願いがあったように記憶しております」
一度に9トンの爆弾や焼夷弾などを搭載、日本中に壊滅的な被害をもたらした。
アメリカ国立公文書館に問い合わせると、報告書が見つかりました。
1945年6月1日、搭乗員は11人、サイパンを飛び立ち大阪を空襲した1機でした。
機体の名前はA□16(Aスクエアー16)。
墜落当日、400機余りの編隊で大阪市内を空襲していた。
戦争末期、50回を超える空襲を受けた大阪。町は焦土と化し、死者・行方不明者合わせておよそ1万5000人が犠牲になったと言われる。
カパララさんは空襲を経験した人に初めて会うことに。
東浦栄一(92)さん、空襲で犠牲になった人の慰霊碑を作った淀川の河川敷で見た光景を語った。
「たくさんの人がここで犠牲になった」
遺体を河川敷で焼いて、その近くに穴を掘ってお骨を埋めた。
毎年6月、地元の人が祈りを捧げてきた千人塚。
千人を超える人々がここで荼毘に付されたことを伝えていた。
東浦さん「1トン爆弾が大阪市内にたくさん落ちて、約20mの穴ぼこが出来た。公園へ逃げたら死体がゴロゴロしていて、一部が枝にぶら下がっていた。
あゝ、これが地獄だなと思った」
カパララさん「この場所で起きたことに胸が痛みます。今は平和で戦争があったとは想像もつきませんが、この慰霊碑を見ると忘れてはならない過去があると教えられます。アメリカは戦争を早く終わらせるために空襲をしたと聞いてきましたが、地上は地獄になっていたことが分かりました」
N:重大な被害をもたらしたB-29、墜落に至る状況も分かりました。
空襲の際、日本軍の対空砲火を受け4つのエンジンの内1つが火を噴き消息を絶った。
墜落現場は戦後、アメリカ軍が調査した資料に記されていた。
カパララさんが入手した墜落現場とみられる写真。(墓標!?)
当時の村人たちは亡くなった搭乗員を埋葬し墓標をたてて弔っていた。
さらに驚くべき事実も分かった。11人の内4人が生存していた。
名前を元にアメリカ軍兵士のデータベースを調べると、4人はいずれも20代の若者たちでした。
「話を聞いたり文書も読んだりしましたが、若者たちの写真を目にすると胸に迫るものがありました」
生き残った4人は、直ぐ期待からパラシュートで脱出。
このうち、ビークロフト軍曹とウィティー中尉は、ともに山を登り頂上にある寺に投降しました。翌日二人は麓の集落で警察に引き渡された。
奈良 天川村
戦争に700人以上が出征した天川村、この光景を見ていた人に会うことが出来た。
神橋豊忠(80)さん、4歳でした。
カパララさん「多分、神橋さんが見たアメリカ兵はこの人とこの人と思います」
神橋さん「(2人のアメリカ人は)ここを歩いて行きました。連れていかれた。そこにお婆さんが出てきて、その前の日に息子さんが亡くなったと言って(アメリカ人に)しがみついて泣いていましたね。戦争というものはむごいものですね。何とも言えない」
一方、生き残ったアメリカ兵との間に交流があったことも分かりました。
アルビン・ハート軍曹です。ハート軍曹は山を下り一人で森をさまよっていたところ、捜査していた川上村の人たちに見つかりました。
カパララさんはハート軍曹を見つけた村人の親族にたどり着きました。
山本逸郎さん(83)、ハート軍曹を見つけたのは大伯父の重光さんだったという。
「大木の裏に隠れていて、手を挙げて出てきたらしい。そーら背の高い人で、体格のええ人やった」
見つかったとき大きな体を震わせていたというハート軍曹。重光さんには沖縄戦で戦死した一人息子がいました。息子と同じ年頃のハート軍曹を自宅に連れ帰り、自宅で育てていたイチゴを食べさせたと言います。
「ハート軍曹は、縁側に座ってイチゴを大伯父がお皿へ入れて出したら、それを美味しそうに食べて・・・」
警察に連行される前、ハート軍曹はお礼の言葉と共に、コンパスを重光さんに渡しました。
顔や手にやけどを負っていたハート軍曹は医師の手当ても受けていました。その医師の写真を親戚の女性が見せてくれました。
手当てをしたのは地元の診療所の医師、辻千恵子さん。
親戚の辻美恵子さん「彼女の若い時の写真。医学を勉強して、分け隔てなく治療しなければというのが、彼女の中に多分あったのではないかと思って」
カパララさん「戦争中はアメリカ人を敵や鬼とみなす人が多かったのに、空襲したばかりの敵兵を手当てしていたこの若い医師の存在に驚きましたし、愛ある行いだと心を動かされました」
N:その後、残る一人も捉えられ4人全員が大阪に司令部があった中部憲兵院へ連行された。 (つづく)