◎「のど元過ぎれば熱さを忘れ」。忘れられない者も大勢いるし、あの惨状を思い出せば、とても再稼働とか言えないと思いますが、政府は違うんですね。岸田首相の原発新増設などもってのほか。さて、2014年、関電の大飯原原発運転差し止めの判決を下した樋口英明裁判長でしたが、定年後は:
◎原発の耐震基準が住宅メーカーの耐震基準よりはるかに下!というのには本当に驚きました。安全神話がこんな数字にも表れていたのですね。全文コピーです:
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「なぜ、私は原発を止めたのか」元裁判長がすべての日本人に知ってほしいこと
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現在、「原発の危険性」を伝える活動を続ける元裁判長と、太陽光発電による農業の復活に挑む福島の人々を追った映画『原発をとめた裁判長 そして原発をとめる農家たち』がポレポレ東中野他全国の劇場で公開されています。2014年5月、福井地方裁判所裁判長として、関西電力大飯原発の運転差し止めの判決を下した樋口英明さんは、定年退官を機に、原発の危険性を伝える活動を始めました。なぜ、原発の運転を止める判決を下したのか、そして、従来の原発訴訟の問題点とは何なのか――。樋口さんにお話を聞きました。
ハウスメーカーよりも低い原発の耐震基準
――なぜ、定年退官後、原発の危険性を伝える講演活動を始めたのでしょうか。
樋口英明さん(以下「樋口」):「原発は強い地震に備えているはずだ」とほとんどの人が思い込んでいます。私自身も福井地裁で大飯原発3・4号機の運転差止訴訟を担当するまではそう思っていました。 ところが、原発訴訟の審理を通してそうではないということがわかりました。 原発は「止める・冷やす・閉じ込める」という「安全三原則」を守らなければなりません。原発は核分裂反応を止めることができたとしても、電気で水を送り続けてウラン燃料を冷やし続けない限り、福島原発事故のような過酷事故になるのです。原発には運転を止めるだけでは安全を確保できないという火力発電とは全く違った特徴があるのです。私たちの常識が通用しにくい技術であることを知っておく必要があります。 たとえ、原子炉自体の耐震性が高くても原子炉につながっている配電や配管の耐震性の低さを考えると、強い地震による停電や断水の危険は避けられないのです。 ハウスメーカーの耐震基準は、三井ホームで5115ガル、住友林業で3406ガルです。一方、2021年3月に原子力規制委員会が認可した耐震基準は、四国電力の伊方原発3号機で650ガル、関西電力高浜原発で700ガルなど、1000ガルを切るものも多く、下は620ガルから上は1209ガルの間に留まっています。そして、それを超える地震が日本では頻発しています。原発が安全でないことは、このことから一目瞭然です。
電力会社の主張を信用するか否か
――原発訴訟は高度な専門的科学知識を要するもので、理解しにくいというイメージがあります。
樋口:確かに、原発訴訟は「専門技術訴訟」とされています。原発裁判の訴訟資料を見ると科学技術の知識や難解な数式などが出て来るので、そのように感じるのかもしれません。 しかし、電力会社の「この原発の敷地に限っては震度6や震度7の強い地震は来ませんから安心してください」という主張を信用するか否か、これが原発訴訟の本質です。 法律家も一般国民も「自分には難しくて危険性は判断できないのではないか」という先入観に囚われているのです。 福島第一原発の吉田(昌郎)所長は2号機の格納容器の爆発を原因とする「東日本壊滅」を覚悟しました。原発の過酷事故はわが国の存続にかかわるのです。私は、原発事故からわが国を守るために、多くの人々の先入観を解かなくてはいけないと思って講演活動を始めました。
裁判所は原発の危険性を判断していない
――映画の中でも紹介されている樋口理論と従来の原発訴訟の判断基準の差について教えてください。
樋口:私が大飯原発の訴訟を通して打ち立てた理論(樋口理論)は、
①原発事故のもたらす被害はきわめて甚大である。よって、
②原発には高度の安全性(事故発生確率が低いこと)が求められるべき。
③地震大国日本において高度の安全性があるということは、高度の耐震性があるということにほかならない。
④しかし、我が国の原発の耐震性はきわめて低い。
よって、原発の運転は許されない。という極めてシンプルなものです。
一方、従来の判決を導く理論は、住民側の運転差し止めの要求を棄却した1992年の伊方原発最高裁判決以降、「行政庁(原子力規制員会)の判断を裁判所として尊重し、その判断の過程が合理的なものであったか否かを審査する」というスタンスでした。つまり、原発そのものの危険性について、裁判所は直接判断しない、ということです。 被告電力会社側の主張が専門技術知識で安全性を立証しようとし、原告住民側もそれに引っ張られて専門技術知識を要する主張を展開するようになったことが原因です。その当否を判断できないので、裁判所は「専門家の判断を尊重する」という基準で判断するようになりました。
耐震基準以上の地震は頻発している
――なぜ、専門技術知識を要する主張が展開されていたのでしょうか。
樋口:原発訴訟が始まった1970年当時は地震観測網が存在していなかったために、仮に電力会社が設定した耐震基準が「600ガル」だとしても、600ガルの地震がよくある地震なのか、それとも滅多に起こらないものなのか、わかりませんでした。 そこで、600ガルを導くに至った計算過程や調査方法に問題点がなかったかどうかについて審理がなされていたのです。客観的に危険性が判断できないので、揺れの数値を導くに至った計算式や活断層の調査方法に目が向くのは止むを得なかったんですね。だから住民側の弁護士も専門家の意見を聞いて一所懸命にやっていました。 ただ、今は50年前とは違います。2000年頃にやっと地震観測網が整備されたことによって、600ガルもしくは700ガルの地震が容易に起こり得るということが分かったのです。つまり、原発の耐震性が低すぎる、ということが明白になったのです。 原子力規制委員会は「この原発は700ガルを超える地震が来ると危ないです。700ガルに至らない規模の地震は安全です」という基準を立てています。そうしたら、700ガルはどの程度の頻度で起こる地震なのか、普通は調べますよね。それが理性人でしょう。その「普通の」理性人の思考形態に回帰しないといけない。
民事訴訟は当事者主義が原則
――「専門家の判断を尊重する」という基準に基づく判決が続いているとのことですが、そこを疑って一から調べるか否かは、裁判官のスタンスによって異なるということでしょうか。
樋口:もちろん、民事訴訟は、私的自治の原則から、当事者の主張のみが審理の対象になるという当事者主義に基づいて行われます。それはどの訴訟も変わりません。ただ、その主張をどのように判断するかは、裁判官によって変わります。 裁判官が、当事者の主張立証のみに基づいて判断するか、積極的に当事者に主張立証を促すかは裁判官のスタイルなので、どちらが正しいのかは一概に言えません。
住民側の弁護士も被告の主張に乗せられている
――法廷で、原発差し止めを主張する原告住民側弁護士に対し「我が国では700ガル以上の地震は何回来たのですか」と尋ねても、弁護士は回答してくれなかったとのことでした。
樋口:強い地震に原発が耐えられないことは双方ともに争っていませんでした。当時の基準地震動である700ガル程度の地震でも危険が生じる可能性は明らかでしたし、被告関西電力も1260ガルを超える地震が来れば打つ手がなくなることを認めていました。つまり、震度6の地震が来れば危うくなり、震度7が来れば絶望的な状況になるということです。 しかし、関西電力は「基準地振動である700ガルを超える地震は大飯原発の敷地には来ないので安心してください」と主張していた。つまり、「強い地震が来ないということを予知できる」という関西電力の主張が信頼できるかどうかが本当の争点だったのです。 そこで、原発を差し止めたいのであれば、700ガルが普通に起こり得る地震であることの立証が必要なので、原告側に「700ガル以上の地震は何回来たのですか」と尋ねました。しかし、住民側弁護士はこれに応じてはくれませんでした。 私はそのことを疑問に感じていたので、退官後、住民側弁護士に「なぜ応じてくれなかったのか」と尋ねたところ、「原発設計の基準となっている解放基盤表面(地下の岩盤)での揺れと地上の観測記録の揺れは違うから比べられない」とのことでした。このことは電力会社によって広く流布されていて、脱原発派であろうがなかろうが多くの人が信じ込んでいます。 しかし、原発が強い揺れに襲われた5つの事例すべてにおいて、解放基盤表面の揺れが周囲の地表の揺れよりも小さかったという事実はなかったのです。したがって比べることができるのです。 また、観測記録において、700ガルを超える地震動が観測された地点が1ヵ所に過ぎなかったとすると、その場合には「700ガルを超える地震動は地盤が軟らかい場所で観測されたもので、大飯原発の敷地とは違うので大飯原発の敷地には700ガルを超える地震は来ない」という認定が可能ですが、700ガル以上の地震が頻発していれば、その認定は難しい。この論理は地震の揺れの計測地点についての専門技術的な知識がなくてもわかるはずです。
骨太な議論をして欲しい
――なぜ、そのような事態が起きてしまうのでしょうか。
樋口:原発の耐震性が高いのか低いのかに注目する発想がなかったからです。そして、裁判官も当事者の主張を元にして審理をするので、耐震性が高いのか低いのかについては着目してこなかったのです。 このような基本的で単純明快な議論は、地震学に精通した勉強熱心な弁護士ほど受け容れがたいようです。しかし、この映画のプロデューサーの河合弘之先生はすぐに納得してくれました。 「難しい技術的な理論を主張して負ける」という流れを止めるには、わかりやすくシンプルな理論を打ち立てて、その理論で勝訴するしかない。そして、原発訴訟において勝てる理論とは、私が大飯原発訴訟で打ち立てた樋口理論だと思っています。 地震学の中に「強震動予測」という分野がありますが、それは決して最高の地震動を求めるものではなく、平均的な地震動ははどれぐらいかを求める学問です。 原子力規制委員会は地震規模の判断の際に地震学において定評のある松田式を用いています。松田式は活断層の長さと地震規模の平均的な関係を導くものですが、人の命が掛かっている以上、平均ではなく、最大規模の地震が起きたらどうなるかをシミュレーションすべきではないでしょうか。もっと骨太の議論をするべきです。
なぜ、シンプルな判断ができないのか
――危険性を判断する裁判官のスタンスはどのようなものだったのでしょうか。
樋口:1970年代に原発訴訟は始まりましたが、やはり、時が経過するにつれて、本質からはだんだん外れてきたという印象があります。以前の判決を見て、「同じ争点」と「同じ基準」に従って判断してしまうようになりました。 その「同じ基準」でよく用いられているのが、先程述べた伊方原発最高裁判所判決の「裁判所は危険性そのものではなく、原子力規制委員会の立てた基準の合理性を判断すればよい」という基準です。この基準に則って判決を書くとすれば、危険性そのものではなく、原子力規制委員会の策定した規制基準が正当な手続を踏んだか、委員会の独立性が担保されていたか、学者の支持があったのかなど言わば形式的なことだけを審理の対象にすればいい。裁判官の仕事としてはこの方がラクなんですね。 しかし、原告が日本国憲法に基づいて人格権(※)を元に訴訟を提起しているのだから、原発が人の生命・身体にとって危険かどうか、という観点から判断すべきです。なぜ、そのシンプルな判断ができなくなってしまうのか、ということは、考えなくてはならないと思います。
(※)人格権=幸福追求権を既定する憲法13条、生存権を定める25条を根拠として認められるものであり、個人の人格的生存に不可欠とされる権利のこと
――原発再稼働の動きが出ています。
樋口:再稼働を推進しようとする人たちは、原発の恐ろしさがわかっていないのでしょう。しかし、コスト面から考えても原発を再稼働させることは経済的に引き合いません。このことは、簡単な計算をすればわかることです。 東京電力の年間売り上げは5兆円で、利益率が5パーセントです。そうすると、年間利益は2500億円前後です。 今年7月に東京地方裁判所は、東電の旧経営陣に対して13兆円の損害賠償を命じる判決を出しました。13兆円は確定した損害額ですが、実際の損害額は25兆円に及びます。 つまり、東京電力は福島原発事故で100年分の利益を吹き飛ばしてしまったんです。仮に、東日本壊滅となったら、全ての大企業の100年分の利益がなくなってしまう。廃炉にかかる費用は福島の原子力発電所だけで70兆円と言われています。コスト面だけを考えたとしても原発は稼働させるべきではない。
樋口:国の責任を認めなかった最高裁の裁判官は原発の本質をわかってません。一方で東電の旧経営陣に対し13兆円の賠償命令を出した裁判官は原発の本質がわかっています。 地裁判決の中で、原発の事故は「原子力発電所の従業員や周辺住民のみならず、地域の社会的・経済的コミュニティの崩壊や喪失を生じさせ、我が国そのものの崩壊にもつながりかねない」と述べています。それが原発の本質なんです。
<取材・文/熊野雅恵> 【熊野雅恵】 ライター、合同会社インディペンデントフィルム代表社員。阪南大学経済学部非常勤講師、行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、映画、電子書籍製作にも関わる。
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◎上記引用元はコチラ:「なぜ、私は原発を止めたのか」元裁判長がすべての日本人に知ってほしいこと(週刊SPA!) - Yahoo!ニュース
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