「それでも私はピアノを弾く ~天才ピアニスト ブーニン 9年間の空白を越えて~ 」を見て

◎3泊4日の旅行から帰って、翌日、高知のSさんから電話。21日の金曜日、夜10時から1時間半、BSプレミアムで「それでも私はピアノを弾く~天才ピアニスト ブーニン 9年間の空白を越えて~」という番組がありました。丁度ドライブ旅行の出発の日でしたので録画していました。この番組があることも浜松のUさんというファンの方から教えてもらいました。安倍元首相が奈良で参院選の応援演説中銃撃を受けてそのまま死去するという大事件の1ヵ月もしないうちにUさんから電話がありました。7月に東京でブーニンさんの演奏会があって、その前の八ヶ岳高原音楽堂のリサイタルには膝が悪くて行けなかったが、聴いてきた。舞台を歩く姿が足を引きずっていて可哀そうだった。楽屋へ行ったら話しかけてもらえて左手が痛いんだという事だったそうです。

私と神奈川のEさんはブーニン卒業と言って、指揮者のウェルザーメストさんのオーケストラの方へ移ってしまっていました。Uさんに、もう聞きたくない? と聞かれると「そんなことないよ。ただ、何年か前にブーニンさんと同い年のファンのIsanからフライデーの記事のコピーを戴いて、車いす姿の写真を見たきりだったから…」と。

そんなことがあって、旅行から帰った翌日、お昼ごろSさんから電話があり、もう一度電話がある夜までにと思って録画した番組を見ることに。とても良い内容でした。

2013年からコンサート活動を止めたブーニンさんの空白の9年間と、1985年の『NHK特集ショパンコンクール’85 ~若き挑戦者たちの20日間~」以後、西ドイツの演奏会場から亡命した経緯、そして妻であるジャーナリストの中島栄子さんとの結婚から、栄子さんがブーニンさんに寄り添い、支え続けた闘病生活と今年6月の八ヶ岳高原音楽堂と7月の人見記念講堂の再起まで・・・。

内容には一本の芯が通っていて、テーマは『自由を求めて』という表現がぴったりかなと思います。ブーニンさん亡命当時はゴルバチョフペレストロイカが西側では過大評価され、すっかり自由になったソ連から『亡命』するなんてマザコンだとか甘えているとか身の程知らずだとか、音楽業界はじめブーニンシンドロームに騒いだマスコミ挙げてブーニンたたきでした。それで、ブーニンさんは当時「亡命」という言葉を使わず「移住」と言い換えておられました。

ところが、今回、この番組では「自由を求めての『亡命』」だったことをはっきりと。あの当時、たまりかねたようにブーニンさんが自分で亡命の経緯を書いた「カーテンコールの後で」という本の内容を、今、NHKの番組が取り上げてブーニンさんの気持ちに寄り添った番組になっていると思いました。今なら、プーチンのロシアを見ればわかるように、当時と少しも状況は変わっていないということを誰も否定できないでしょう。

2013年演奏会が出来なくなった原因の左肩の痛みが治りかけた頃、転んで左足首を骨折、遺伝性の糖尿病で患部が壊死、切断を避けるための医師探し、ドイツで患部を除去して繋ぐ手術を受け、短くなった足に特製の厚底の靴を履いて演奏時のペダルを踏めるようにして、9年間の空白を乗り越え観客の前でピアノ演奏を再開しようと苦闘するブーニンさん。

85年のショパンコンクールの、あのはつらつとした自由奔放なショパンの演奏が繰り返し流されます。あの演奏に心を打たれました。クラシック音楽になじみのない私でもショパンの音楽を美しいと感じることが出来ました。

ジャズピアニストの山下洋輔さんも、あのコンクールで共に演奏して4位だった小山美稚恵さんも、5位だったフランス人のルイサダさんも、幼馴染やゆかりの人たちがブーニンさんを語ります。また日本人ピアニストにも影響を与えたとして、辻井伸行さんの母親や反田恭平さんも登場します。

私は、あの時々微笑みながらショパンを楽しそうに奏でる19歳の髭を生やした青年の演奏をこんな風に受け止めました。彼は音楽の中だけで自由なんじゃないか・・・彼の思いや情熱や感情の全てはピアノの演奏の中だけで自由に楽しく思うがままに表現できる・・・つまり、ピアノでしか自由に表現できないのではないかと。

もし、亡命していなかったらどうなっていたか…についても語ってくれる人が登場します。日本がなぜ好きなのかと聞かれて涙をぬぐうブーニンさん。「泣かないで」とブーニンさんにドイツ語で言った後、妻の栄子さんが、「その質問で色んなことを思い出したからだと思います」と。

亡命先からロシア語で日本のことを「マヤ ミチタ(私の夢)」と言ったブーニンさんでした。「妥協したくない」青年ブーニンソ連の国家権力に迎合することはできないと、ピアニストとして生きるために必要な自由を求めてKGBの監視の目を盗んで大脱走を果たしました。

たまたま日本のNHKショパンコンクールを取材していて、その年の一位になった演奏を収録した番組を見た日本人の、殆どクラシック音楽を聴いた事のない人達(私もその一人)のハートを打ち抜いたことから、日本への道が開けた数奇な運命というか偶然というか。高知のSさんも、浜松のUさんも、神奈川のEさん、大阪のブーニンさんと同い年のIsanも私もブーニンファンとして関わった一人でした。

夜かかってきた電話でSさんが「ブーニン、あの頃の”青春”だったね。青春を共に過ごした者同士、すぐ、またあの頃に戻れるね」と。当時私たちの通信手段は電話と手紙でした。熱い思いをどれだけ手紙や葉書で交わし合ったことか。彼女の文才豊かなユニークでチャーミングな手紙を受け取ることは、私のもう一つの楽しみでしたし、私は音楽で感じたことを何とか言葉にしたいと悪戦苦闘していました。今では懐かしい思い出です。

そうそう、一人息子の甲斐セバスチャンさんはピアニストにはならず、スイスの大学院で量子物理学を研究しているそうです。だから今は妻一人が頼りだとか。ケガと病の不自由な身体で演奏されるシューマンの小品のピアノには、今度は『魂の自由』を求める音色が聴き取れるような気がしました。

9年間の怪我と病を克服して、もうコンサートピアニストとは言えないけれど、観客の前でもう一度ピアノを弾きたいという思いを夫婦の二人三脚で実現させたコンサート(7月の昭和女子大学人見記念講堂)が11月6日夜11時半からBSプレミアムで放送されます。