「歴史学者 加藤陽子さんが『安保3文書を 戦前3文書から考える』(朝日新聞4月7日)」と「維新の強さの理由」

🔲今朝のJアラートも延々と・・・

どこに落ちるかわからぬミサイル落下を警告するJアラートが、一体何の役に立つのか。冷静になって、よく考えよう。結局、「日本は狙われている」という意識を日本人に植え付け、怖がらせること以外には、何の役にも立たない。つまりJアラートは人々のためではなく、政府のためのもの。無視に限る。

 

◎昨日はヨーガの後、降り出した雨の中、二台の車に分乗して三田屋(さんだや)へ向かいました。豊中の三田屋って、な~んだ、母の入所している桃山台の施設のすぐ近くにあるお店でした。三田屋が開業し出した頃、石橋の三田屋に行ったことがありますが、何十年振りだろう。生のピアノ演奏があって、新緑がガラス戸一面に眩しい(あれ?雨がやんでた時間があったということ!)店内で、牛の鉄板焼きコース料理で一番お安いのが2970円。自慢のハムとサラダから始まって、途中、黒豆が出たり、メインの焼き肉と筍ご飯の後はコーヒーとデザートも。3年振りにお互いマスクの無い顔を見ることが出来ました。帰りは、桜井方面に帰る方の車で家の前まで送ってもらいました。夫の車の助手席で母のホームを訪ねる行き帰りの通いなれた道なので道案内を務めました。

🔲維新の強さの理由は、メディアとの癒着だけではないが・・・

メディアとの癒着「だけ」が維新の強さの理由ではない(維新は大阪府の隅々まで選挙で勝つためのシステムを構築している)とは思うが重要な要素なのは確か。そして在阪テレビ各局と維新を癒着させる接着剤となっているのが各種事業受注で府市とズブズブの吉本興業だろう。
引用ツイー
関西以外の人は「何故、維新がこんなに強いのか?」と思うだろう。
答えを言おう。メディアと癒着しているからだ。
毎日毎日吉村がテレビに出てくる。バラエティにすら出演してくる。
 
「メディアと政治の癒着」がどれほど危険なことかは関西の選挙結果を見れば分かる。
 
 在阪テレビ局のワイドショーで、レギュラーコメンテーターばりの露出を見せる吉村洋文・大阪府知事。だがスタジオで、コロナ禍の失政を追及する声は聞こてこない。

🔲山崎氏のツィッターでは、加藤陽子さんの記事の要点を書いておられます。大事なことなので、掲載されたインタビュー記事を詳しく取り上げてみたいと思います:

加藤陽子東京大学教授)「この文書は、国会ではないどこかで議論され、国会ではない場で決定されました」(朝日)digital.asahi.com/articles/DA3S1
・「このような文書が天から降ってきて歩き出す。それはそもそも異様なこと、おかしいことなのだと認識する必要があります。方針が決められたあとに予算の議論をさせられている現実には何か逆転があると思うべきなのです」
・「急に突きつけられたのは防衛費の問題だけではありません」
・「敵を特定しようとする性格が濃厚」
・「(『帝国国防方針』『用兵綱領』『所要兵力』を振り返るのは)不意打ちのように突きつけられた現在の3文書を、これまでの歴史の流れの中に位置づける手がかりがほしいからです」
・「(戦前の3文書で)軍拡が進んでしまった」
・「安保3文書を読んでいて不安を感じるのは、誰がどう作成したのかが分からないところです」
・「また日本政府は、米国政府と裏側で何をどうすり合わせているのかを国民の前に明らかにしていません」
 
 安全保障政策の大転換をうたい、防衛力の大幅増強を目指す岸田政権。その方針は今回改定された安保3文書に明記された。国民的議論がない中での大転換、大丈夫なのか。
「戦前の3文書に立ち戻って考えてみては」と提案している歴史学者がいる。東京大学教授の加藤陽子さんだ。もう一つの3文書から何が見えるのだろう。

◎4月7日(金)の朝日の「オピニオン&フォーラム」頁。歴史を検証して歴史に学ぶということは無駄な過ちを繰り返さないための必須の学習です。是非政治家さん達には学んでほしいと思います。「1907年(明治40年)の国防3文書に立ち戻って考えてみては」と提案している歴史学者加藤陽子さんの記事を私なりにまとめてみます:(色字、太字、字の大きさ by 蛙)

軍拡招く国防方針、米露を仮想敵国に身の丈超えた目標

2022年12月 「国家安全保障条約、国家防衛戦略、防衛力整備計画」の<安保3文書>が国会の議論を通さず、どこかで閣議決定された。

(1)5年間の防衛費、今の1.5倍以上の40兆円に増額。(2)中国を名指しして、『これまでにない最大の戦略的な挑戦』と書くなど、敵を特定しようとする性格が濃厚。

(3)北朝鮮の『脅威』を強調したり、ロシアを『安全保障上の強い懸念』と書いていたりするなど、事実上、複数の国を仮想敵国とみなす文書になっている。

そこで、現在の3文書を歴史の流れの中に位置づける手がかりとして、戦前の3文書を振り返ってみたい。

1907(M40)年、「帝国国防方針」「用兵綱領」「所用兵力」の<戦前の3文書>

日露戦争で陸・海軍の共同作戦が良好に進まなかったので、両軍の協同一致を促すために、天皇の裁可を受けた、両軍を統御できる最高基準として、作った。平時からの連携を促す手法ではなく、上から文書で抑える手法を採った。

 「帝国国防方針には、陸・海軍の軍備を大幅に拡充させる数値目標が盛り込まれていた。ただ、実は作成側の狙いの中には軍拡を抑制することも含まれていた。陸・海軍の予算獲得競争を3文書で抑えられれば、とも期待していた」

 「が、狙いは外れ、結果は、むしろ軍拡が進んでしまったと言える」

「原因の一つは、仮想敵国の多さ(「大きさ」?by蛙)」「世界最大級の陸軍国家・ロシアと世界最大級の海軍国家・米国。その両方と同時に競う方針だから『必要な軍備』に終わりがない。身の丈を越えた軍事力を持とうとする国防方針だった

 また、文書を作ったこと自体が軍拡を誘発した面もあった。『方針に書かれた目標を実現するために』との理由で軍拡を求める動きや、軍拡のために仮想敵国を増やそうとする発想が誘発されていったのです

       ■    ■  (以下書き移し)

安保3文書の方針は具体的な安全保障環境に基いて積み上げられたものに見えますか。

「見えません。どれだけの防衛費がなぜ必要なのかを検討する前にNATO諸国並みの国内総生産GDP)比2%に防衛費を増額するとの方針がまずあったからです」

「米国や欧州の国々に向けてアピールする文書だからこれでいい、という考え方だったのかもしれません。ただ、防衛力を大幅拡充するという方針が中国に対する威嚇や脅しとして機能することには注意すべきです」

軍独断と非開示 抵抗し抑制した民主政治の時代

1930年代前半の日本海の中には、自分たちが軍拡しても米国は大規模な軍拡はしてこないだろうとの楽観がありました。しかし実際には米国は、対日戦争を想定した国防プランを持っており40年と41年にはそれぞれ日本海軍に匹敵する規模の艦隊建造を図っています日本は、自らの軍拡が相手の目に威嚇や脅しとして映ることや、相手が国力の点で無限に戦争を継続できる国であることを軽視していたのです」

軍備拡大に抗しようとした動きはあったのでしょうか。

ありました。1907年に国防方針が制定されたとき、首相だった西園寺公望天皇にこう奉答しています複数の列強国に対して軍備で優越することは望みがたく、我が国の財政はそれを許せる状況にはありません、と」

「国防方針は事実上、政府や議会には知らせずに軍が作成したものであり、西園寺は首相でしたが2文書のうち所用兵力しか閲覧を許されませんでした。しかし彼はその後、情報が自らに開示されていない現実を逆手に取り、自分は文書全てを認めたわけではないと主張するための足場にしました

民主的な仕組みは軍拡の抑制に力を発揮したのですか。

議会や政党が軍拡に反対した歴史は重要です。実際、二大政党が交代で内閣を組織した『憲政の常道』の時代には、国防方針に掲げられた軍拡目標の達成は実現しにくい状態になっていました。議会や政党がになったのは、安全保障環境と国家の財政状況、国家予算をすり合わせる作業でした」

30年には、海軍軍令部が反対する中で濱口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約に署名しています。重い軍事負担にあえいでいた当時の経済状況から見れば妥当な選択でした。国防方針を盾に『それで米国と戦えるのか』との批判が出ましたが、本来、身の丈に合っていない国防方針の方を見直すべきだったのです。しかし実際には『政党政治は国防をないがしろにするものだ』と訴える勢力が優勢になり、民主政治が存在感を示した時代は32年頃終わりました

     ■    ■

国民の前に明らかにしていません。先月の国会でも、具体的な説明をしない姿勢に終始しました。軍事機密の部分はあるにしても、国民の税金を使うことの費用対効果がどうなっているのかを説明する方法はあるはずです

(引用終わり)