秋のドライブ(3)平泉「中尊寺金色堂」

🔲日本学術会議の任命拒否の6人、「『外すべき者』と文書に手書き」とは、名指しのパージと同じ、許されることではありません:

「外すべき者」と書かれた人が実際に外され、「任命拒否の理由は『文書を保有していない』として、不開示」になっている現状。
 

 

◎今回、東京まで車で行くので、ついでに東北へドライブのつもり、行きたいところを考えておくようにと夫に言われて、まず思ったのが、それなら岩手県平泉の中尊寺金色堂へ行ってみたいと思いました。

昨年の10月の同じころ、中国山地を抜けて下関から北九州市に渡って門司から巌流島へドライブ旅行に行きました。その時、門司から見た本土の対岸の橋のたもと近くに平家終焉の地、壇之浦が見えました。あそこまで源義経も来ていたのか…と感慨深かったのですが、その義経の終焉の地が平泉の中尊寺でした。

1185年の平家滅亡後、源氏の頼朝と義経の仲が悪くなります。義経が青年期を過ごした奥州の藤原秀衡を頼って弁慶と共に訪ねた平泉では、1187年、秀衡が亡くなり、四代目泰衡に代替わり。頼朝の追討令を受けて、ここ平泉で首を切られてしまう。しかし、その2年後の1189年には、頼朝は奥州藤原氏そのものを滅ぼしてしまう。

下の駐車場から700m ほど上がったところの駐車場で車を止めて歩き出す。珍しい芭蕉の木が見える。辺りには柿の木もあるし。

杉木立の中を進む

平泉の歴史と世界遺産

平安時代後期、奥州平泉に藤原清衡を初代として、基衡、秀衡,泰衡のいわゆる奥州藤原四代によって平泉文化が築かれた。清衡が中尊寺を建立したのが1100年頃。

二代基衡の時代には毛越寺の建立、三代秀衡の頃には無量光院が建立され、国宝「紺紙金字一切経」が書写されるなど栄華を極める。平泉で青年期を過ごし最期を迎えた源義経(牛若丸)の逸話で知られるのは四代泰衡の時代。後に義経の兄・源頼朝に侵略されて奥州藤原氏は滅亡した。

 中尊寺毛越寺など5つの構成資産からなる平泉―仏国土(浄土)」を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群ー」世界遺産登録されたのは、2011年6月浄土思想に基づいて形成された、寺院や庭園による理想世界の表現が他に例のないものと非常に高い評価を受けている。

《国宝》金色堂

 天治元年(1124)造立。堂宇全体を金箔で覆い、随所に螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や精緻な彫金を施して、経典に説かれた「皆金色」の極楽浄土を表現しています。

 三基の須弥壇の上には、それぞれ本尊である阿弥陀如来、両脇に観音菩薩勢至菩薩、さらに六体の地蔵菩薩持国天増長天がそれを囲み、稀有な仏像構成となっています。

 金色堂はまた霊廟でもあり、中央の壇の内部には初代清衡公、向かって左の壇に二代基衡公、右の壇に三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公の首級が納められています

金色堂を出るとお土産を売っている。真ん中の箱はおみくじ。数年ぶりに大吉でした。

階段を降りる前に振り返ると。

階段を降りて大吉のおみくじを引いた後、左手の経蔵の前を通ると松尾芭蕉の句碑。

   五月雨の ふり残してや 光堂

木の根が階段のように続く祠。立て看板によると「関山天満宮」とあって、菅公、菅原道真ゆかりの御真影と観世音菩薩をお祀りしてあるそうです。

  菅公御詠 東風吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ

宮沢賢治の句碑がありました。ペン字を拡大して石碑に彫り込んでありました。

少しピントが合っていませんが・・・「大盗」って、頼朝のことかな?

  中尊寺
            宮沢賢治
七重(じゅう)の舎利の小塔(こたう)
(がい)なすや緑(りょく)の燐光

大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映(は)えかゞやけり

手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼(らい)して没(き)ゆる

金色堂は来年(2024年)建立900年を迎えます。貰ってきたチラシによると来年2024年1月23日―4月14日、東京国立博物館の本館特別5室にて「建立900年 特別展 中尊寺金色堂」が開催されます。<(1)初めて中央壇上の国宝仏像11体が揃って展示(2)超高精細な8KCGで実物大の金色堂を大型ディスプレイ上に再現>

最後に金色堂が見える場所で写真を撮ってもらいましたが、ネットの写真で。

坂の入り口を下ると右手に金色堂を覆う屋根が杉木立越しに見えます。

これで今日の目的は叶えられました。

麓の大きな駐車場の傍にあるお店で遅い昼食のとろろそばを戴く。地図を観乍らこれから先の予定を。明日は松島と瑞巌寺を訪れて福島へ入り、猪苗代湖へ。松島までの途中で適当なパーキングエリア(PA)を見つけてそこで夕食と車中泊ということに。

16時、平泉を出発。高速道路で宮城県に入る。志津川沿いを走る。2011年、津波で川が上流へ逆流する様子をテレビが延々映していたあの志津川です。秋の日はつるべ落とし、5時20分ごろには日没。50分ごろ着いた矢本PAに決める。