🔲小林節氏、地元のホールで講演会があったのは何年前? お久しぶりに名前を聞きました。日本の政治家は『家業』に?もう何年も前から民主主義の危機と言われてきましたが:
◎さて、私が行きたかった平泉の中尊寺金色堂を訪ねた翌日、今度は夫が行きたいと言っていた松島です。初日、常磐自動車道を亘理で降りて、仙台から真っ直ぐ行けば松島でしたが、岩手県の平泉めがけて手前を左(内陸部)に向かって直角に東北自動車道を目指したので、一夜明けて、今日はその松島を目指します。お天気も上々。
写真は前日の夕食の支度。スタートは先ず水を沸かすことから始まります。
前回よりテーブルの足も伸びて広くなりました。
翌朝、朝焼けがきれいでした。矢本PAは、案内板によると松島のすぐ手前でした。
食事の支度を7時ごろから初めて片付け終わったのが8時ごろ。8時半、出発です。
8時40分ころには松島到着、車を駐車場に止めて、海岸沿いの道路の信号を渡ると海です。まず赤い橋を渡って五大堂へ。(写り込んでいる時間は1時間ほど早い)
「すかし橋」ですが、工事中で塞いであり、橋の下の海水は見えず。
渡り切って、松林の島の中央にある「五大堂」
807年に建設されて1200年以上の歴史のある五大堂。現在の建物は1604年に伊達政宗が再建したもの。東北にある最古の桃山建築として、国指定重要文化財に指定されています。秘仏の五大明王像は、33年に1度のみ御開帳されます。次の御開帳は、2039年の8月20日を予定。
朝日に輝く松島湾
沢山の小さな島に囲まれて内海のようです。観光船が港めがけてやってきます。
五大堂は、これから行く瑞巌寺の一部とか。
島から出て、五大堂を見る。白い岩の上に緑の松が生えている独特の島です。
島の入り口近く、先ほど渡った信号を戻るとすぐ瑞巌寺の門が見える。
くぐって中へ入ると杉木立が一直線に並ぶ。
手前の木は伐採されていて、切り口は相当な大きさなので大木だったのが窺える。
次の列の若木が大木になるのを待っている様子。百年後を見据えて・・・
私がここを訪れたのは就職した年、新卒の3人で東京まで飛行機で来て磐梯山の五色沼や野口英世生家と猪苗代湖、会津のさざえ堂、白虎隊の飯森山、そしてここ松島を訪ねています。57年ほど前のこと。その時、この岩穴の祠はむき出しでした。
よく手入れされた杉の大木と庭。そして国宝の瑞巌寺本堂の屋根が見えます。
中門の屋根は唯一の茅葺の屋根。
左手は台所の役割を担う建物の「庫裡(くり)」、国宝です。
この角度で見る「本殿」は、半世紀以上前と変わらず。
靴箱に靴を置いて堂内を廻ります。金銀彩色された襖絵は、平成30年に10年がかりの大修理が完成したとか。「円満」の額が架かった上段の間の左には、更に上の間があって、そこに明治天皇が座られたそうです。(途中から写真に日付が入っていたとは…気づかなかった。時刻が少しずれてるのがマズイ)
ぐるっと裏に回ると、庭師さんたちが手入れ中。枯山水のお庭でした。
靴を履いて、外へ。本堂を真正面から見る。この写真では、右手に・・・
樹齢400年の紅白の梅の木があります。植木職人さんがお手入れ中でした。
中門を出て。とにかく、よく手入れが行き届いています。緑の苔が美しい。
彼方に、入って来た門が見えますが・・・
門の向こうは海!
松島湾の海が見えます。
もう一度、道路を渡って海を。
日本三景の石碑が立っていました。夫は、この日初めて松島に来て『三景』達成です。
私は、父が80歳の時三姉妹で安芸の宮島へ、15年前には学生時代の仲間5人でmwengeさんの案内と運転で訪ねた天橋立で『日本三景』達成でした。
いつまで眺めていても飽きない海と島と松の景色です。
10時20分。土産物店でお土産を。夫は合唱の、私はヨーガのお稽古仲間にいつも貰ってばかりなので、「白松がモナカ」の黒ゴマ餡が名物だと言うのでそれと息子に牛タンを。これは私たちも口にできるかも。
駐車場で車に乗り込んで次は福島です。
松島を後にするとき西行さんの名前が。芭蕉と一緒で西行さんもあちこちにその足跡を残していますね。(時刻表示は30分程早すぎ)
初日に訪ねた毛越寺、中尊寺、そしてこの日の瑞巌寺の前身の延福寺も、慈覚大師円仁によって開創されたものとか。それでは、最後に芭蕉の俳句です。
松島や あゝ松島や 松島や
伝えられているのはコレですが、どうも自作ではなさそう。
追記:伊達政宗公に触れるのを忘れていました。
慶長9年(1604)、仙台藩祖・伊達政宗公は円福寺の復興を開始し、4年後には寺名を「松島青龍山瑞巌寺円福禅寺」と改めました。
甲冑を身に着けた座像がありました。パンフレットによると、政宗公17回忌に当たり制作され、ほぼ等身大の木像。政宗公の遺言により幼少時に失明した右目が開いている。
廊下から部屋の中の座像を見ましたが、確かに眼帯はしていなくて、そういえば ”伊達政宗”らしくないと思いながら・・・でした。