”私とアメリカ”と、サンルームで咲く花

◎昨日のブログで取り上げた鳩山さんのことを考えながら昨日は一日私のアメリカに付いて振り返っていました。今朝、mwengeさんのブログ(健康不安は? 60年前のこと? 「報道1930」「政治とカネ」の問題 - Mwenge Keikoのつれづれ日記 (hatenablog.com))を訪ねたら、はからずも同じ出来事について書いておられて、時代を感じました。

私とアメリカ。豊中市の岡町で、父方の叔母さんがチュウコーヒンで手に入れた赤いロングドレスを着て写真を撮っていました。4,5㎝四方のセピア色の写真がありました。私は肩のあたりに赤と緑の複雑で美しい模様を編み込んだセーターを着せてもらいました。母が「やっぱり純毛は違う」と言っていました。チューコーヒンは「中古品」のことだと後で分かりました。戦後、物のない日本にアメリカからお情けの中古衣類が届いて、公民館のようなところで一山ずつ並べてあって、そこから選んで、母がお金を払ったのか払っていなかったのかは覚えていません。

7歳で豊中から箕面に引っ越した頃、アメリカ人宣教師が子ども達を教会に誘っていました。小学1年生の3学期、学芸会の出し物を「蛍ヶ池」の進駐軍の兵隊さんの慰問で着物姿で披露しました。山へ遊びに行くと、畑や田圃に大きな穴が開いていて、爆弾の跡だと言われました。大きな洞窟へ水晶探しに行くと、防空壕の跡だと言われました。

学校では、アメリカの泥棒は自家用車持ってるんだってという話で盛り上がりました。夏休みの夕方から、学校の校庭に白い布のスクリーンが立てられ「ターザン」映画が上映されました。テレビが我が家にやってきた頃、アメリカのテレビドラマ「名犬リンチンチン」を見ていました。

中学生になって、英語を学び始めました。

そして、私が16歳の高校1年生の6月、安保反対闘争があり、新安保条約が国民の「大多数の反対」を押し切って国会で承認されました。この頃から日本の自立とアメリカは敵対関係にあるような意識が生まれました。そしてベトナム戦争南ベトナム解放民族戦線は奇しくも1960年に結成されています。

学生時代、英語の会話の時間、神戸港の米軍空母コンステレーション号の見学に出かけました。当時、裾の広がったスカートが流行っていて、空母の細い急な階段を上るときスカートが気になったことを覚えています。甲板はとてつもなく広く、先端におもちゃのように見える小さな戦闘機が並んでいました。これがベトナムへ行くんだ~と思っていました。

神戸港アメリカの観光船が寄港すると埠頭で「米軍帰れ」「ベトナム戦争反対」のデモが組織され、私も参加しながら、先輩に意味があるの?と訊いたら、米軍が歓迎されていないことをアピールすることはアメリカ世論に影響があるから大事なんだと言われました。授業で誰かが「imperialism(帝国主義)」という英語を使って、アメリカ人教師が驚いたこともありました。英語と米語は違うとか、英語を学びながら、アメリカに対しては二律背反の想いを抱えていました。

日本のアメリカとの関係は沖縄に表れていると思っています。鳩山さんは日本人として当然のことを口にした首相でしたが、昨日のコメント欄に戴いたコメント通り、余りに無知・無防備でした。それでも、「日本人なら当然の思い」を呼び覚ます働きはあるかと思いましたが、バカにする国民が多いということが現状では情けないことです。

◎サンルームに取り込んだ鉢の花が細々ながら咲いています。まずゼラニウムの花。

これは両親が石垣島の石塀の上から持ち帰ったもの。カランコエだと思います。

足元の鉢。左の鉢から茎をのばして折れ曲がりながらも咲いています。

↓これもゼラニウムの花。奥の鉢から茎をのばして咲いています。

右の細い葉が密集しているのがカランコエの本体。

初めて咲いた金のなる木の花。何故か葉が落ちて、最後だと思って咲いているのかも。

頂いたカニサボテンの蕾が少し膨らんできています。