「うりずんの雨」上映会とユンカーマンさん(「ウィンザー通信」)

◎先日、アメリカの奥田愛基さんたちと話し合いをされていた「ウィンザー通信」さん、今回は沖縄の映画「うりずんの雨」の上映会について。監督のジャン・ユンカーマンさんも登場です。ブログのタイトルは<ユンカーマン監督「沖縄を『戦利品』としての運命から解放する責任を負うのは、日米両国市民である私たち」>(http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/868649603d6b374a5574c3315668aff2
息子さんも交えて心温まる上映会の様子が写真からも伝わります。ぜひブログを訪ねて読んでみてください。ここでは、映画の紹介のところをコピーさせていただきます:


1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸、12週間に及ぶ沖縄地上戦では、4人に一人の住民が亡くなりました。
本作では、当時、同じ戦場で向き合った元米兵、そして沖縄住民に取材を重ね、米国立構文書館所蔵の、米軍による記録映像を交えて、沖縄戦の実情に迫ります。

また、戦後のアメリカ占領期から今日に至るまで、米軍基地をめぐる負担を、日米双方から押し付けられてきた、沖縄の差別と抑圧の歴史を描き、
現在の辺野古への基地移設問題につながる、沖縄の人たちの深い失望と怒りの根を、浮かび上がらせます。

老人と海』で、与那国島の、荒々しくも美しい自然と風土を捉え、
映画日本国憲法』で、日本の平和憲法の意義を訴えた、アメリカ人映画監督ジャン・ユンカーマンが、
真の平和を求め、不屈の戦いを続けている、沖縄の人々の尊厳を描いた、渾身のドキュメンタリー。


小嶺基子(詠み人):


うりずんの 雨は血の雨 涙雨
礎の魂 呼び起こす雨


うりずん』とは、『潤い初め(うるおいぞめ)』が語源とされ、
冬が終わって大地が潤い、草木が芽吹く3月頃から、沖縄が梅雨に入る5月くらいまでの時期を示す言葉。
4月1日から始まった沖縄地上戦が、うりずんの季節に重なり、戦後70年経った現在も、
この時期になると、当時の記憶が甦り、体調を崩す人たちがいることから、
沖縄を語る視点のひとつとして、本作のタイトルを『沖縄 うりずんの雨』とした。


ジョン・ダワー(歴史家):

この世界に、沖縄ほど、過酷な第二次世界大戦の遺産はない。
そして、平和と平等を求めるどんな声も、沖縄の人々が語る言葉ほど雄弁ではない。


映画『沖縄 うりずんの雨』を観ると、そんな思いにさせられる。
この映画は、沖縄の人々に寄り添いながら、けっして抑制を失わず、私たちの心をしっかりとつかむ。
そして、1945年の沖縄戦から、戦後の米軍による植民地化、現在の闘争まで導いていく。


日米間の戦争の悲惨さや、冷戦時代のアメリカによる権力の乱用、
そして、冷戦後も続いた、東京の政治家たちの背信…。
これらを証言するのは、沖縄の人々だけではない。
アメリカ人たちも、率直な言葉で語る。
さまざまな視点から捉えた映像の中には、戦場でアメリカ軍が撮影した、引き込まれるような記録映像もある。


この映画を観ることで、私たちは、沖縄の人々が体験してきた抑圧と差別の歴史を、直視させられることになる。
それでもなお、彼らが語る言葉は明快で、威厳に満ちているため、
観る者に、理解や賞賛だけでなく、希望すら抱かせる。
この映画の、最もすばらしいところである。



ジャン・ユンカーマン(監督):
1975年、大学を卒業した私は、沖縄を訪れ、6ヶ月間、コザのバー街で、反戦兵士(*1)たちの支援活動に関わりました
ベトナム戦争が終わった直後で、其処此処に、きな臭い雰囲気が残っていました。
沖縄戦終結からは30年が経っていましたが、島の至る所で、焼け野原になった跡が見られました。
高い樹木はありませんでした。
トタン屋根を乗せただけの建物が、たくさんありました。


占領は3年前に終わったはずなのに、沖縄はまだ、基地だらけでした
米軍による支配が、続いていたのです。
基地の中に沖縄がある」と、言われたとおりでした。


私は、アメリカをはじめ、世界中の人々に、沖縄の実態を伝えることが、自分の人生の仕事の一つだと考えるようになりました


沖縄の実態の一つは、この映画の英語タイトル"The Afterburn"が象徴しています。
『アフターバーン』とは、炎が消えた後にもやけどが続く。
やけどが残るんじゃなくて、時間とともに、火傷がより深くなっていくことです。
沖縄戦を体験した人々は、まさに、そうしたトラウマと共に生きてきました。
元米兵もそうです。
日本兵もそうです。
そして特に、4人に一人が亡くなった沖縄の人々にとって、沖縄戦は今も続いているのです。


想像もつかないほどの戦争体験をした、沖縄の人々は、一貫して、戦争を拒絶してきました。
米軍も、沖縄戦では、同じ血を流しました。
しかし米軍は、沖縄を『戦利品』として扱い、膨大な基地を建設
それらを拠点として、朝鮮、ベトナム、中東での戦争を続けてきました
平和を求める沖縄の文化と、戦争を選ぶアメリカの文化ーー
対極にある二つの文化が、狭い島に共存せざるを得なくなったのです


何の武器も持たない沖縄の人々が、世界でいちばん強大な軍隊を持つアメリカに対して、反戦・反基地の戦いを始めました
そして、1950年代の島ぐるみ闘争から、普天間基地辺野古移設反対闘争まで、不屈の精神で戦い続けています
私は、1975年に、初めてその精神に触れ、深い感銘を受けました。
そして、強い尊敬の念を抱きました。
以来、40年が経った今、不屈の精神はいっそう強固となり、さらに広がりつつあります
まさにそれこそが、私が世界に伝えたい、もう一つの沖縄の実態です。
私はそれを、この映画の日本語タイトル『うりずんの雨』に込めたつもりです。


米軍基地を撤廃するための戦いは、今後も長く続くでしょう。
沖縄の人々は、決してあきらめないでしょう。
しかし、沖縄を『戦利品』としての運命から、解放する責任を負っているのは、沖縄の人々ではありません
アメリカの市民、そして日本の市民です。
その責任をどう負っていくのか、問われているのは私たちなのです


(*1)
米軍の中で、反戦の意志を持って抵抗していた兵士のこと。
ベトナム戦争当時、反戦米兵の支援運動を続けてきた。
PCS(パシフィック・カウンセリング・サービス)という米国のグループがあり、ユンカーマン監督は、その沖縄事務所のスタッフとして、法律相談などの活動をしていた。

◎ブログ主さんが「購入したパンフレットに、ユンカーマン監督による、沖縄国際大学教授の前泊博盛氏へのインタビューが載っていました。この内容が本当に素晴らしく、沖縄が抱えている実情のすべてが、とても簡潔に鋭く語られています。」ここから一部コピーです:

沖縄戦は、太平洋戦争の中で、一番犠牲が多いところなのに、ノルマンディーの戦いの方が、はるかに認識されている
そういうアメリカの意識も、今の沖縄の置かれている現状につながっている
昔も今も、沖縄は、「記憶に無い」というか、「認識されない島」。
「忘れられた」どころか、「覚えた覚えもない島」なのかもしれない。


沖縄経済全体に占める、米軍基地経済の比率は、4兆円のうちの2000億円。
5%程度まで、貢献度は落ちている
ヨーロッパのように、経済的に運命共同体になること
アジアにもAU(亜州連合)を作り、経済共同体になることによって、域内の対立や戦争は意味を失う
軍事基地は、富を生まない
脅威を生み、破壊を生み、殺戮を生む


基地がなくなると、沖縄は経済的に困る
基地がなくなると、沖縄と日本の平和が危なくなる


この二つの神話、基地経済の呪縛から、どうやって解き放つか

△映画のポスターはネットで見つけたもの。ユンカーマンさんの写真は「ウィンザー通信」さんからお借りしました。△ユンカーマンさんの前泊氏のインタビュー記事をぜひコチラで:http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/868649603d6b374a5574c3315668aff2