NHKスペシャル「JAPANデビュー2・天皇と憲法」

憲法記念日が日曜と重なった日の9時からの放送、録画にしました。このところ横浜の世界卓球が目が離せないくらい面白くて、そちらを優先。今回は、16歳の石川佳純、18歳の松平健太という二人の素晴らしい選手が現れて、軽々と格上の相手を打ち破っていくのが頼もしい。で、一日遅れて録画で見ました。それをまた、連休最後の日にまとめてみました。また長くなりますが、番組を見た方は私の感想部分だけでも読んでみてください。

大日本帝国憲法の誕生から崩壊まで、近代国家となった日本が成文憲法を持って、その中に国家体制の基本を明記するまでの準備、調査、草案、発布。その後の運用を通して、なぜ天皇の絶対視、軍国日本になっていったかを3部に分けて:

第1部 大日本帝国憲法の誕生
18世紀後半、成文憲法を持つことは近代国家の証となった。1787年には、アメリカ合衆国憲法ができ、人民主権三権分立が定められている。1791年、フランス革命を経たフランスにも共和国憲法が。1831年、ベルギー王国、1848年プロイセン王国にも、立憲君主制憲法が。日本では、1882年に伊藤博文がドイツに調査に出かけ勉強した。

国家を人体に譬え、頭に君主を抱き、両肩に上院、下院の立法、身体は行政各機関、両手が軍隊、両足は人民というのがウイーン大学のシュタインの考えだったが、君主の権限を制限し、議会が力を持ち過ぎるのを抑えて安定したバランスの良い政治をするため、特に、行政(内閣)を強調した。伊藤は天皇の侍従の藤波をドイツのシュタインの元にやり、これを学ばせた。帰国後、藤波は明治天皇に三日に一度の講義を33回重ねてこれを伝え、天皇はこれをよく理解した。

1885年、伊藤博文はこれまでの太政官制度を廃して内閣制度を制定、内閣総理大臣になって憲法制定に乗り出す。
草案を井上毅に命じる。京都大学教授の山室信一教授の解説では、天皇が国を治めるという正当性を明治政府は国内に対しても諸外国に対してもアピールする必要があり、その正当性の根拠として「万世一系」が有効だと考えられ、井上毅もこれに注目した。

こうして、第1条「大日本帝国万世一系天皇が之を統治す」と第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規により之を統治す」により「君主権を制限し、無限専制にならないよう」にした。1889年(明治22年)2月11日、近代国家の骨組として三権分立天皇・内閣・議会)の大日本帝国憲法ができ立憲政治が始まる。

第2部 政党政治の自滅(立憲政治システムのスタートから崩壊まで)
1890年第一回帝国議会が招集される。立憲自由党立憲改進党があり、犬養毅は自由民権党(民党)で活動していたが立憲改進党の一員であった。当時は長州と薩摩を中心とする藩閥内閣と言われ、内閣総理大臣山県有朋がこの政党政治に激しく対立した。

山県は「軍部大臣現役武官制」という制度を作り、陸海軍大臣及び次官には現役将官のみがなれるとした。たとえ政党が政権をとっても軍部が許可せず、内閣が大臣候補を挙げなければ組閣できない。さらに、山県は、法令は総理大臣の署名不要、陸海軍大臣の署名のみで成立するとした。後々、軍部の権力が肥大化するのを許したのは憲法第11条「天皇は陸海軍を統帥す」という天皇統帥権であり、内閣や議会に関係なく独立した軍隊の存在を可能にした。

なぜ、山県がこれほどまでに政党政治に対抗し、軍部の権力が肥大化したのかについては、東京大学政党政治を研究している御厨貴教授によると、政党が地方の利益代表になってしまい、国家のことを考えているのは軍人だけだと思うようになったからだとか。当時の世界の動きも関係している。

1914年第一次大戦で世界の君主国があいついで崩壊。1917年にはロシア革命
1918年にはドイツ帝国オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝が退位。
一方、1911年に辛亥革命清朝から中華民国となりアジアで最初の共和国が成立。
日本では、1912年には明治天皇崩御大正天皇は病弱で公の場に顔を見せることが少なくなり、国内は自由・平等の民主主義を求める大正デモクラシーの時代。
1925年(大正14年)には普通選挙が実現。25歳以上の男子に選挙権。選挙民が4倍に。政党政治は党利党略におぼれ、民意に影響される政治になった。

1929年(昭和4年)には政友会総裁が前の軍人田中義一から犬養毅に。ロンドンの軍縮会議が開かれる。1930年には時の総理大臣浜口雄幸が軍の反対を押し切って軍縮案に調印。
犬養はロンドン会議前、軍縮賛成であったのに、政友会をまとめるため、軍の意向に反する調印は天皇統帥権を侵すものと内閣攻撃に出る。浜口雄幸東京駅で狙撃される。
1931年(昭和6年満州事変勃発。関東軍が独断で満州を占領。
満州不拡大方針で意見が分かれ若槻内閣総辞職。12月天皇から大命が下り、犬養毅、第一回帝国議会から41年目にして内閣総理大臣となる。満州国承認に反対。軍部、党内から激しい反発。5か月後の1932年、5・15事件。海軍青年将校により犬養射殺。
犬養毅政党政治最後の総理大臣となり、以後政党政治は成り立たず。

御厨氏の解説では、政党政治の枠内から総理大臣を出すという枠組みを、自ら破って、反政党的な機関と結びついた。政党外勢力を利用して、軍拡路線に乗っかって、結局は軍に取り込まれた。政党の自殺行為であった。

伊藤博文の心配、「第4条、君主権の制限が帝国憲法の骨子であり核であり、これがなければ無限専制になってしまう」という心配が、皮肉にも現実になってしまった。それも「統帥権」によって国を誤り、国を滅ぼすことになってしまった。憲法の不備というよりも、軍部に対抗する政党、政治家がいなかった事が不幸。伊藤の精神を受け継ぐ政治家がいれば、第4条を楯に軍部の横暴を抑える方向で天皇に動いてもらうことも可能であったはずなのに。其の為の4条が生かされる事がなかったのが残念。
第3部「国体論」の暴走天皇機関説をめぐる激論から敗戦、新憲法まで)
1912年、それまで東京帝国大学上杉慎吉憲法講座で天皇主権説(天皇は国家そのもの)を唱えていたが、あらたに美濃部達吉が「国家はたくさんの機関からなりたつ組織、天皇はその最高機関である」とする「憲法講話」を発表、雑誌「太陽」誌上で大論争となる。

評論家の立花氏によれば、<天皇機関説の論争は「統治する主体は何者か」についての論争。上杉が憲法を文字通り、「天皇主権。天皇統治権を持つ主権者。天皇中心主義で日本の国体そのもの」と考えるのに対して、美濃部は国家法人説で、「主権は国家という法人の中にある」「天皇も国民と同じ。国家を人体にたとえれば頭に当たる部分が天皇で、主権は国家そのものにある。天皇は国家の一機関・器官(organ)である」と説く。

上杉の糾弾の文章そのものが美濃部説の曲解である。「私は君主国と言い、美濃部は人民全体をもって主体とする民主国と言う」「天皇が主体でない美濃部説は君主国を否定している」「天皇は機関である。天皇は団体の役員である。団体とは人民のことであり、天皇は人民の使用人と言うに等しい」というように。しかし、美濃部説は教授陣の支持を得、大学内に二つの講座を設けて、学生に選ばせたところ、多数が美濃部を選び、上杉憲法は完全敗北。上杉のこの屈辱は生涯のトラウマとなる。>

1917年には、ロシアに社会主義国家が誕生、世界的に革命思想、労働組合運動が活発になり、東京帝国大学内においても教授が無政府主義民本主義を唱え、各地に労働争議も起きる。こういった思潮に危機感をもった元老の山県有朋は、1920年大正9年)に原敬内閣閣僚に「共産主義運動防止の意見書」を配布している。

上杉もこういった動きに「国体を揺るがすもの」、「議会中心の政治は親政をおびやかすもの」と反発している。
立花氏によると、上杉は扇動家で、議論が上手く、熱狂的支持者が右翼の中心となった。その中でも東大の学生右翼が「七生社」(七たび生まれ変わっても国に尽くさん)を作って死生を誓って国体活動をしていた。 1929年の上杉死去以後も1932年の血盟団事件(大蔵大臣の井上準之助三井財閥の團琢磨)の暗殺団には七生社のメンバー4人もいて、以後のテロにも学生や門下生が加わっていた。なかでも四元義隆は懲役刑に服役後、近衛文麿の側近となり、戦後も歴第総理大臣のブレーンとなった。

1930年には浜口雄幸狙撃、1932年5・15事件で犬養毅射殺と日本は急速に右傾化。このころ、北一輝天皇中心の国家にすべきと「日本改造法案大綱」を発表、一部、伏せ字で出版が許可された。伏せ字の中には憲法停止、天皇大権、両院解散、戒厳令などの過激な文言が。

1935年には、ふたたび国会で天皇機関説が批判され、当時、貴族院議員であった美濃部達吉が国会で2時間にわたって反論するも、「国体の本義をあやまるものなり」として天皇機関説を排除、9か月後には辞職に追い込まれる。辞職後も美濃部のもとには自決を求める脅迫状が右翼からばかりでなく一般の個人からもとどいたという。昭和天皇自身も「君主主権より、国家主権がよいと思う」と述べられていたにもかかわらず。

1936年(昭和11年)2月21日美濃部達吉銃撃。
5日後の2月26日、陸軍青年将校に率いられた兵士1400人が国家改造を求めて政府要人8人を殺害。軍部が政府を乗っ取る。
これで、軍人がすべての権力を握ってやりたい放題の暗黒の時代が完成。平泉澄(きよし)の「国史の眼目」では「天皇への忠誠の極致は生命を捨てて天皇の為に」と語られ、「天皇のために命を捧げる」特攻精神となり、「国民一人一人が皇国のために命をささげれば勝つ」と、本土決戦、一億玉砕論となる。

立花氏は「1945年の敗戦までの大きな構図でみれば、上杉の亡霊が美濃部に勝ったことが、軍部が政府を乗っ取ることにつながり、日本の敗北になった」としめくくる。

1945年敗北、1946年(昭和21年)の日本国憲法では「天皇は国民統合の象徴であり、国民の総意に基ずく」となっていて、「万世一系」は「国民統合の象徴」に変わった。国民の8割がこれを支持している。

憲法天皇の権限について、立花氏は、国民の総意があり方を決めるとなっているだけで、その時の国民が決めることに、
山室氏は、天皇を利用して、何かをなす可能性をなくすことにはなっていないし、存在理由・意義は合意できていない、
御厨氏は、主権在民の立場から天皇はどうあるべきかを考えておくことが大事、国のへその問題であり、いかに条項で非政治的に書かれていても本格的に考えていないと危ないと、それぞれ指摘。
番組は最後に、大日本帝国憲法から120年、昭和憲法から63年の今年、天皇と国家の在り方は未来への課題であると結ばれる。

昭和天皇と戦争責任の問題について今の天皇のお考えを聞くことはできないが、軍部に利用された過去については、天皇一家が「二度と利用されまい」と反省しておられるに違いないと私は思います。それは靖国神社に戦犯が合祀されてからは参拝に行かれなくなったことや、園遊会で国旗、国歌を強制しないようにと都の教育委員に注意なさったという話などからもそう思います。

三人の学者の方たちは天皇がまた利用される危険性に注目し用心するようにと述べておられますが、私には、これから先の問題は、統治権のない象徴天皇を利用しようとするよりは、国民統合の象徴天皇として、大戦の反省にたっての平和への意思や象徴という存在意義を政治の場で無視したり否定したりする動きの方が問題なのではと思えてしまいます。それは、ここのところ、歴代の自民党出身の総理大臣が靖国神社を参拝をしていることで、すでに始まっているような気がするのですが。

上杉と美濃部の「天皇機関説」を巡る論争は、美濃部の機関説が当たり前のことを述べているとわかっていても、上杉のような言いがかり的決めつけ方をされてしまうと、本人がいくら否定しても、単純で過激な「畏れ多くも」の感情論しか残らない。そこに暴力的に組織された軍隊が実行部隊となるテロの恐怖心が加わると、簡単に白も黒に見えてしまうだろう。加えて情報が限られ、言論の自由がなければ、容易にマインドコントロールされる怖い時代だったと身震いする思い。垣間見える今の北朝鮮がこの時代と同じにみえてくる。

この恐怖政治を行ったのは、天皇自身ではなくて、天皇制を利用した軍部であった。それにしても、「天皇主権」、「天皇の為に命を捧げる」と言いつつ、その「天皇」は、現実の明治天皇でも昭和天皇でもなく、自分達の主義主張を何が何でも実現するために使った神がかりの魔法のように効き目絶大だった。私は母から、学校が火事になって、ご真影(昭和天皇の写真)を守るために命を投げ出した教員の話しを聞いたことがある。一枚の写真と命を引き換えにしなければならない時代の怖さ。だから戦後「天皇制」と「天皇」の区別なく、天皇に対する忌避感が私達日本人にはあったと思う。天皇の戦争責任が明確にされなかった事も一因だろうとは思いますが。

とにかく、天皇と国家の在り方は、明治憲法下においても憲法制定者の意図した正しい在り方で存在したことは一度もないと言えるのでは。(それは、政党においても同じで、政党政治の未熟さは、今回、改めて知りました。)今後の課題は、新しい天皇と国家の在り方を私達国民も過去を訪ね、天皇一家とともに、模索していくことではないでしょうか。