『月刊日本』天皇制についてのインタビュー(内田樹)

【PS】先ほど(PM2:00現在)、自公維三党により共謀罪強行採決されたとかテレビで速報が流れました。またまたの暴挙です。

未来のための公共@0519国会前‏ @public4f 44分前
大多数の国民が説明不足とするなか、いま衆議院法務委員会で共謀罪強行採決されました特定秘密保護法、安保法制に続きこの国の民主主義はまた傷つきましたいま必要なのは路上で民主主義を取り戻すこと。今夜、国会前に集まりましょう。
#強行採決を許さない
#国会に押し寄せよう


内田樹@levinassien
共謀罪衆院法務委員会で強行採決ここまで立憲政治と政党政治が空洞化したことは、僕の知る限り過去にありませんこれは「日本が終わる」徴候なのか、「いまのシステムが壊死する」徴候なのか後者であると僕は信じています。熟果は必ず腐り落ちる。


内田樹さんがリツイート
島田雅彦‏ @SdaMhiko 4月10日

貧困層は切り捨て、数の多い中間層は分断し、貧困層差別と富裕層の仲間入り幻想に誘導し、搾取する富裕層と極右を優遇し、国有財産や税金を私物化し、政権に不都合と見るや、仲間の尻尾切りをし、自分たちの延命を図る与党サイコパス集団以外、誰も得をしないそれでも政権支持するの?


想田和弘‏ @KazuhiroSoda 2 分前

自民と公明と維新が共謀して共謀罪強行採決ってシャレにもならんな


今月号の『月刊日本』に内田樹氏の天皇制についてのロングインタビューが掲載されたというお知らせが16日付のツィッターでありました。ロングインタビューだけあって長いですが、面白い内容でした。
私自身の天皇制についての考え方の変化と重なる部分があって、そう、そう、私もそう思ってた、だけど、そう思うようになった、と思いながら読みました。戦中(私の場合は昭和19年)に生まれ、新しい教育を受けてきた私たち世代には共通する思いとして、あの戦争に責任があるはずの天皇制はなんで残ったの?というのがまずあったと思います。最初は、民主主義とは相いれない制度なんじゃないのと無視していました。母に言わせると、天皇ご一家ほど気の毒な家族はない、プライバシーがなくて可哀そう、誰もなりたいなんて思う人はないだろうと言い続けています。さすが大正デモクラシーを生きた人だと感心するところです。
私が天皇制について考えを変えるようになったのは、海外からの日本を見る目を意識しだした頃からだったと思います。そのころ、考えたことが内田樹氏の「二つの焦点を持つ楕円形統治システム」という話と重なります。(引用元:http://blog.tatsuru.com/2017/05/16_0612.php


どうやら「楕円的」というか、二つの統治原理が拮抗している政体の方が「一枚岩」の政体よりも健全らしい、そう思うようになりました
翻って日本を見た場合には、天皇制と立憲デモクラシーという「氷炭相容れざるもの」が拮抗しつつ共存している。でも、考えてみたら、日本列島では、卑弥呼の時代のヒメヒコ制から、摂関政治征夷大将軍による幕府政治に至るまで、祭祀にかかわる天皇と軍事にかかわる世俗権力者という「二つの焦点」を持つ楕円形の統治システムが続いてきたわけですこの二つの原理が拮抗し、葛藤している間は、システムは比較的安定的で風通しのよい状態にあり、拮抗関係が崩れて、一方が他方を併呑すると、社会が硬直化し、息苦しくなり、ついにはシステムクラッシュに至る

◎内田氏はご自分が『天皇主義者に変わった』きっかけは、韓国の知識人から「日本は天皇制があって羨ましい」と言われた理由を聞いた時だったと:

「一枚岩」の政体は、二原理が拮抗している政体よりもむしろ脆弱で息苦しいそれよりは中心が二つの政体の方が生命力が強い。日本の場合は、その一つの焦点として天皇制がある。これは一つの政治的発明だ。そう考えるようになってから僕は天皇主義者に変わったのです



―― 「國體護持」ですね(笑)


「國體」というのは、この二つの中心の間で推力と斥力が働き合い、微妙なバランスを保つプロセスそのものことだと私は理解しています。「國體」というものを単一の政治原理のことでもないし、単一の政体のことでもない、一種の均衡状態、運動過程として理解したい祭祀的原理と軍事的・政治的的原理が拮抗し合い、葛藤し合い、干渉し合い、決して単一の政治綱領として教条化したり、制度として惰性化しないこと、それこそが日本の伝統的な「国柄」でしょう。


安倍内閣の大臣たちが言う「国柄」というのは固定的なイデオロギーや強権的な政治支配のことですけれど、僕はそういう硬直化した思考ほど日本のあるべき「国柄」の実現を妨げるものはないと思います


そう考えるようになった一因は、何年か前に韓国のリベラルな知識人と話したときに、「日本は天皇制があって羨ましい」と言われたことです。あまりに意外な言葉だったので、理由を尋ねるとこう答えてくれました。
「韓国の国家元首は大統領です。でも、大統領は世俗的な権力者にすぎず、いかなる霊的価値も担わないし、倫理の体現者でもない。だから、大統領自身もその一党もつい権威をかさに不道徳なふるまいを行う。そして、離職後に、元大統領が逮捕され、裁判にかけられるという場面が繰り返される。ついこの間まで自分たちが戴いていた統治者が実は不道徳な人物であったという事実は、韓国民の国民統合や社会道徳の形成を深く傷つけています。それに比べると、日本には天皇がいる。総理大臣がどれほど不道徳な人物であっても、無能な人物であっても、天皇が体現している道徳的なインテグリティ(高潔性)は傷つかない。そうやって天皇は国民統合と倫理の中心として社会的安定に寄与している。それに類する仕組みがわが国にはないのです」という話を聞きました。



言われてみれば確かにそうだと思いました。日本でも総理大臣が国家元首で、国民統合の象徴であり、人としての模範であるとされたら、たちまち国中が道徳的な無規範状態に陥ってしまうでしょう。
18世紀の近代市民社会では、「自分さえよければそれでいい」という考え方を全員がすると社会は「万人の万人に対する戦い」となり、かえって自己利益を安定的に確保できない。だから、私権の制限を受け入れ、私利の追求を自制して、「公共の福利」を配慮した方が確実に私権・私利を守れるのだ、という説明がなされます。「自己利益の追求を第一に考える人間は、その利己心ゆえに、自己利益の追求を控えて、公的権力に私権を委譲することに同意する」というロジックです。「真に利己的な人間は非利己的にふるまう」というわけです。


でも、私はこの近代市民社会論のロジックはもう現代日本においては破綻していると思います。「このまま利己的にふるまい続けると、自己利益の安定的な確保さえむずかしくなる」ということに気づくためには、それなりの論理的思考力と想像力が要るわけですけれど、現代日本人にはもうそれが期待できない。


しかし、それでもまだわが国には「非利己的にふるまうこと」を自分の責務だと思っている人がいる。それだけをおのれの存在理由としている人がいる。それが天皇です。
1億2700万人の日本国民の安寧をただ祈る。列島に暮らすすべての人々、人種や宗教や言語やイデオロギーにかかわらず、この土地に住むすべての人々の安寧と幸福を祈ること、それを本務とする人がいる。そういう人だけが国民統合の象徴たりうる
私は天皇制がなければ、今の日本社会はもっと手の付けられない不道徳、無秩序状態に陥っているだろうと思っています

◎『ただ日本国民の安寧と幸福を祈ることを仕事とする人の存在』をこの目で見た体験が、天皇制についての考え方を決定的に変えて、私は今の憲法の象徴天皇を受け入れることができました。このロングインタビューの冒頭で内田氏は天皇のお言葉に触れて天皇の象徴的行為について書いておられます。


昨年のお言葉は天皇制の歴史の中でも画期的なものだったと思います。日本国憲法の公布から70年が経ちましたが、今の陛下は皇太子時代から日本国憲法下の象徴天皇とはいかなる存在で、何を果たすべきかについて考え続けてきました。その年来の思索をにじませた重い「お言葉」だったと私は受け止めています。


「お言葉」の中では、「象徴」という言葉が8回使われました。特に印象的だったのは、「象徴的行為」という言葉です。よく考えると、これは論理的には矛盾した言葉です。象徴とは記号的にそこにあるだけで機能するものであって、それを裏付ける実践は要求されない。しかし、陛下は形容矛盾をあえて犯すことで、象徴天皇にはそのために果たすべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰藉」です


ここでの鎮魂」とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮めるための祈りのことです。陛下は実際に死者がそこで息絶えた現場まで足を運び、その土に膝をついて祈りを捧げてきました。もう一つの慰藉とは「時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」と「お言葉」では表現されていますが、さまざまな災害の被災者を訪れ、同じように床に膝をついて、傷ついた生者たちに慰めの言葉をかけることを指しています。死者たち、傷ついた人たちのかたわらにあること、つまり「共苦すること(コンパッション)」を陛下は象徴天皇の果たすべき「象徴的行為」と定義したわけです。


憲法第七条には、天皇の国事行為として、法律の公布、国会の召集、大臣や大使の認証、外国大使公使の接受などが列挙されており、最後に「儀式を行うこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのです。それは宮中で行う宗教的な儀礼のことに限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り添うことである、と。


◎そして、天皇制の今後については:

かつてレヴィ=ストロースは人間にとって真に重要な社会制度はその起源が「闇」の中に消えていて、たどることができないと書いていました。親族や言語や交換は「人間がそれなしでは生きてゆけない制度」ですけれども、その起源は知られていない。天皇制もまた日本人にとっては「その起源が闇の中に消えている」ほどに太古的な制度だと思います。けれども、21世紀まで生き残り、現にこうして順調に機能して、社会的安定の基盤になっている。いずれ天皇制をめぐる議論で国論が二分されて、社会不安が醸成されるリスクを予想した人はかつておりましたが、天皇制が健全に機能して、政治の暴走を抑止する働きをするなんて50年前には誰一人予測していなかった。そのことに現代日本人はもっと「驚いて」いいんじゃないですか。(★全文はコチラで:http://blog.tatsuru.com/2017/05/16_0612.php)


◎今の天皇は、戦中の疎開を経験、焼け野原の東京を自分の目で見ておられます。敗戦後の天皇人間宣言から戦後の新憲法のもと昭和天皇を通して象徴という意味を考えながら皇太子時代を過ごされています。そして平成、象徴天皇という役割を全身全霊で生きてこられた唯一無二の立場の方が、衰え行く老いを自覚し、天皇国家元首に逆戻りさせる憲法草案を掲げて憲法改正を目指す安倍政権に対して、生きているうちの皇位継承を国民に問うという形で発表されたお言葉の持つ意味はとても重いものがあると思います。