「逆説の日本史」(1)のつづき

昨日の最後の所の続きです。
著者の井沢氏は、読者からの質問:「イギリスの王室は外国(大陸=ノルマンディ)から来たことを隠してはいないのに、日本の天皇家朝鮮半島から来たとすると、どうしてそのことを隠すのか」を「実に的を得た質問」だとしてその答えを推理しています。

「日本の天皇家朝鮮半島から来たとすると」という部分については昨日引用した通り、天皇陛下ご自身が日本書紀の記述から「韓国とのゆかりを感じています」と言われていますので、認めておられるということでOK。
後半の「そのことを何故隠すのか」という点について、私の体験からなんですが、子どもの頃ですから半世紀以上も前の頃から、誰から言われたわけでもなく「チョーセンジン」という言葉は気軽に言ってはいけない言葉のような気がしていました。あえて「朝鮮人」と言えば、一段下に見るような、さげすむ様な雰囲気を感じて、とても口に出せない思いがしました。どうして?と探れば、戦争? それ以前の関東大震災でも、朝鮮人のせいだという流言飛語があったというから、その前? 豊臣秀吉の朝鮮征伐で負けて帰ってきてから? それにしても、「日本書紀桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫だ」という記述があり、「それは日本史の常識」とまで言われているのなら、なぜその「朝鮮」が子ども時代から禁句のように感じられたのだろう?と不思議でした。
井沢氏の推理はこの謎をまさに「逆説」で説明してみせてとっても面白い!

古代の朝鮮半島が三国(百済新羅高句麗)に分かれていた時、日本の大和朝廷天皇家)は百済と仲が良かった。百済が一度滅ぼされ祖国回復の軍を起こした時、天智天皇は大規模な援軍を送っている。なぜか? 「日本書紀」によると、日本は「内宮家(うちつみやけ)」という「飛び地領」(任那または伽耶)を半島に持っていて、それが「新羅に奪われた」と明記されている。その新羅が今度は唐(中国)と組んで実質的にその傘下に入り、百済までも滅ぼした。
だから百済と日本にとって、新羅は共通の敵である。663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が唐と新羅の連合軍に大敗北を喫した。その時、日本に亡命した百済人の名前は中国風の一字苗字ではなかったので、新羅は唐と同盟を結んでからは、服装や年号を唐風に改めただけでなく、名前も中国風に「創氏改名」を強制したに違いない。この時、新羅の王は金春秋。「この金春秋こそ、中国と結び中国の傘下に入ることによって、三国を統一した太宗武烈王その人である。ただし、「武烈王の取った政策(それから一千年に及ぶ中国化政策の端緒となった)は、歴史的地政的に考えれば当然だと思う。」

「しかし、百済や日本にとってはそうではなかったろう」。民族の裏切り者、売国奴という怒りが天智天皇百済に対する異常なまでの肩入れに反映しているのではないか、その上、天皇家朝鮮半島から来たとすれば、新羅は「御先祖の墳墓の地」を奪った憎むべき国。北畠親房の「神皇正統記」に「昔、日本は三韓は同種族という言い伝えがあったが、それを書いた本はすべて桓武天皇の時代に焼却された」という記事がある。こういう書物を焼くことによって「墳墓の地」を「中国に売った」新羅(=朝鮮半島)を「ふっ切る」ことにしたのではないか。つまり、そんな「父祖の敵」に世話になったということは、死んでも認めたくない、という「朝鮮民族の感性」である。これで、日本の文化の中にある朝鮮半島からの影響が故意に無視されるようになったのではないか。

面白いですね〜 井沢氏の推論で行くと<プライドを守るためには事実も認めないという「朝鮮民族の感性」を私たち日本人も受け継いでいるのですよ>ということですね。
「韓国側から見て日本人の一番嫌な所は、日本が特に古代において韓国文化の甚大な影響を受けているはずなのに、それをつねに隠そうしていることだ」という指摘を「事実だ」と認め、その理由は「日本人の韓国人に対する文化コンプレックスによるものだ」という主張についても、「かつてはそう思っていたが、今は違う」として、上記の推理をされているわけですが、当たっているでしょうか・・・

「文化コンプレックス」については日本の文化(建築、工芸、美術)のルーツが大陸にあるのを知った時はガッカリしたものです。「な〜んや、みんな大陸(中国、韓国を経て)から来たもんやん」と言う落胆を通して、引き算してなお残る日本的なものにやっと目が行くようになったものです。でも、だからと言って「無視」する理由にはならないので、やはり、「新羅憎し」の伝統?からきているのでしょうか・・・
クラリンドウ(ヒマラヤ地方原産)の花