日曜日の夜10時から11時半までの放送でしたが、遅いので録画して、翌日の雨の日、ゆっくり見ました。
第10回 ”脱亜”への道 〜江華島事件から日清戦争へ〜
いよいよ東アジアに欧米列強が進出、その脅威のなか、近代化を目指す二人の人物、
一人は日本の思想家・福澤諭吉、 もう一人は朝鮮王朝の官僚・金玉均(キム・オッキュン)。この二人を取り上げて、ペリー来航の1853年から日清戦争の1894年までの約40年間を見ながら、その交流と顛末をという1時間半。
福澤諭吉は慶応義塾の創始者で、咸臨丸でアメリカに行き、勝海舟大嫌いの「脱亜入欧」を唱えた人、くらいしか知らないし、金玉均は聞いたことも無い名前、興味津々で見始めました。キャスターは三宅民夫アナウンサー、レポーターは大桃美代子さん。
今回は最終回のようですが、皆さんそれぞれの立場からの発言と解説がとても面白かったです。 今回も私なりにまとめて、緑字は私の感想です。
まず、キム・オッキュン(金玉均)登場まで:
19C、欧米列強は朝鮮半島にも。1866年にはフランス軍艦がカンファド(江華島)へ侵入、5年後の1871年にはアメリカが一部占領したことも。朝鮮王朝は危機感を感じて砲台を築き、通商を求める外国船に拒絶の姿勢。この頃朝鮮王朝の実権は国王の父であるデ・ウォングン(大院君)にあった。「衛正斥邪」(正しいのは朱子学で、それ以外は邪学として排斥する)の考えで、至る所に建てさせた石碑「斥和碑」には「洋夷侵犯非戦則和主和賣國」(西洋人が侵略してきた時、戦わないで和を主張するのは国を売ることだ)と書いてあった。
その頃の日本はすでに開国して、天皇中心の明治維新(1868年)を進めており、「王政復古」を外交文書にして朝鮮王朝にも伝えていた。ところが、その「天皇」という言葉に反発と恐怖を感じた。なぜなら、朝鮮王朝は清(中国)に朝貢し、清から王位を授かるという「宗属関係」にあり、清王朝しか使えない「皇」を問題視した。しかし、日本はすでに「万国公法」という国際法の世界に組み込まれ、清と1871年、対等の条約である「日清修好条規」を結んでいた。清とは対等であり「皇」を使うに付いて問題はなく、朝鮮王朝の態度に戸惑う。こうした朝鮮への不満が武力で威圧しようとする征韓論に発展。1873年には征韓論の西郷隆盛と、内政を優先すべきという大久保利通が対立、征韓論は退けられた。しかし、軍人・士族の間では対外強硬論が強く、海軍を中心に1874年、台湾出兵。これで朝鮮王朝は日本の要求を拒否し続けると出兵の口実を与えかねないと日本との外交交渉を始める。
1875年(明治8年)江華島事件:日本の軍艦「雲陽」がカンファドへ接近すると発砲され、応戦、戦闘が始まり、砲台を占拠する事件が起こった。この時の戦闘について二つの報告書が存在する。
公式報告書(1500字ほど)には「雲陽」の目的は「航海研究」となっていて、水の補給に島に近づくと国旗を掲げていたのに撃たれた。ところが近年明らかになったという内部報告書(「朝鮮廻航記事」)は2倍の文字数3000字を超えており、目的は「測量」となっている。公式報告では「小規模」となっていた戦闘についても詳しく、「本日戦争」という文字も。「島の建物や施設を燃やし、大砲36門、小銃、太鼓、ドラ押収」と大勝利で国威を輝かしたという内容を長崎に帰還後すぐ井上艦長が海軍に報告している。日本の研究者の考えでは、海軍は欧米諸国の反発を恐れ、野蛮なことをしたと思われたくないので、大幅に訂正した公式報告書の方を欧米諸国に発表したのではないか。韓国の研究者は、二つの報告が存在すること自体が意図的に隠そうとした表れで戦争を起こしたと思う。
この事件後、日本は朝鮮王朝に、事前に清とアメリカに了解を得て、開国を求めた。5ヵ月後、日本は6隻の軍艦と240人の兵を派遣。開戦を恐れた朝鮮王朝は、日本の要求に応じ、1876年2月、日朝修好条規が結ばれる。その第1条には「朝鮮王朝ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ権ヲ保有セリ」と明示。条約は互いに独立した国同士の条約だから自主は当然なのに、わざわざ明記されているのは、明らかに清を意識したもので、朝鮮を「清との宗属関係から切り離して、清の影響力を排除して」という日本の意図がみえる(日本の研究者)。しかし、朝鮮王朝にとっては、関税の自主権がないなど不平等条約であった。ここに、朝鮮王朝は中国と宗属関係にありながら欧米中心の世界(日本を含む)と向き合うという新たなスタートが。条約が調印された場所には「民族の歴史的試練の場所」という石碑がたっている。(石碑の文字が読める大桃さんは「歴史的試練」の後に「侵略が始まった」を加えて読んでいた)
(東大・坂野潤治) (ソウル大・キム・ヨンドク)
ここで江華島事件を日本と韓国の教科書でどう書かれているかの紹介。日本の2006年検定の教科書では「1875年(明治8年)の江華島事件を機に日本は朝鮮に迫って、翌1876年に日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させた」。韓国の国定教科書では「日本は朝鮮半島侵略をうかがい、雲陽号事件を引き起こした。これをきっかけに朝鮮は日本と江華島条約を結んで国の門を開いた(1876年)。」(赤字は放送通り)(ここでも違いは「侵略」の文字の有無にあると思ったが、ふれられず。朝鮮側では江華島事件を日本の「侵略」の始まりと受け止めていることがわかる。)
ここで又、二人の専門家が紹介された。まず日本の外交文書から始まった対立の政治的背景について、ソウル大の先生から「朝鮮王朝は中華的秩序の中で近代国家の一員として進みたかったが、日本は近代国家として早く開国させたかった。そこに政治的見解の違いがあり、日本の立場は受け入れ難いものがあった」(キ)
東大の先生(坂)の地図を用いての説明が面白い。 「赤い部分は宗主国である清朝中国、オレンジはその属国。地理的にはオレンジであっても不思議ではない日本は白。これは、徳川時代の200数10年の鎖国が欧米だけでなく東アジアの中華秩序からの鎖国でもあったから。この為、ペリーが来たときも中華思想に捉われず、欧米の世界秩序を受け入れられた。日本が中華秩序の中にあれば、「皇」の字を使えば朝鮮王朝や清朝がどう反応するかわかるはずで、東アジアの秩序の中にいなかったから平気で出せた文書だった」(坂)
「江華島事件の日本の意図」については「日本は幕末(軍艦奉行は勝海舟)の頃から征韓論が強く、台湾出兵(1874年)には海軍は清朝と一戦やるつもりで態勢を整えていた。翌年の江華島事件の時の海軍は戦争をやりたくてしようがなかった。だからといって明治政府が全部そうだったかといえば、上に行くほど耳が遠く、木戸孝允などは本当に怒ってしまった。だから、条約を結んで、その為に6隻の軍艦を出すんだから、その辺は、ギャップがあった」(坂)に対して、「江華島条約は日本が勢力を拡張しようとする第一段階だった。その後日本は韓半島に対する立場をエスカレートさせていった」(キ)。条約の中で「自主の邦」と書いたのは、「朝鮮政府に清国の属国ではないぞと認めさせて、清国と距離をとらせるため」(坂)、一方「朝鮮王朝としては中華帝国秩序の中での朝鮮の地位を守りながら日本との近代的条約体系を受け入れるというダブルスタンダードだった」(キ)
この後、朝鮮王朝の近代化への模索が始まり、開化派と呼ばれる官僚の中にキム・オッキュンが登場、日本へ渡ることに。つづく
東大の先生の解説では、日本がスンナリ?開国できたのは鎖国していて中華思想からフリーだったからで、もし、オレンジ色の清を宗主国とする属国であって、「ペリー来航によってアメリカに開国を迫られたら、明らかに衝突(坂)」していたわけです。ということは、朝鮮王朝の立場からすると、いまだ清国を宗主とする中華秩序の中にあって、ペリー来航に等しい砲艦外交で日本の開国要求を受けた時の困惑・恐怖・混乱は大変なものだったろうと想像できます。日本だって、事実、スンナリ(坂野氏が使われた言葉ではありませんが)と開国できたわけでなく、今年の大河ドラマ「龍馬伝」を見ていれば、当時の人たちがどんな受け止め方をしたかがわかりそうです。